「燃ゆる女の肖像」感想(前編)窃視の時代を生きた女性の姿

総評(ネタバレなし感想)

この映画は愛の映画だ。誰かが、誰かをおのれの世界に受け入れることのうつくしさを描いた映画だ。しかもそれを、身体という次元と言語という次元にまたがって生きている人間存在を描きながら表現したおそろしい映画だ。
そしてこれは、女性の映画で、同性愛の映画だ。自覚的に女性の抑圧を時代背景として取り入れながら、しかい映像では決して直接は映さず、行為を通じてその抑圧を表現しながら、現代よりもはるかに厳しい抑圧のなかで生きた同性愛者の女性のすがたを伝えた。
傑作だった。見れてよかった。映画館で観たかった。

「燃ゆる女の肖像」では、沈黙は衝動のために用いられる。絵をかきけすための、その人の目を見るための、苦痛に耐えるための、愛するための、感情の発露を際立たせるための。明確に引用されたベルイマン「仮面/ペルソナ」と同じように、沈黙は身体という非言語により繋がりあう人間を画面に表現し、しかしベルイマンの映画のように「本質的に相似な二人が理解し合っていく」のではなく「本質的にまったく異なる二人が互いに違うまま受け容れあう」物語を紡ぎ出す。
だからこそ相手を絵のなかに描きとり、つねに絵を通じてのみ、まるで暗号解読を要求するような形で愛を表現するのだ。
美しかった。

世界は19世紀からほとんど変わっていない。社会はつねに男と女に果たすべき役割・望ましい性格を用意する。無自覚に内面化される規範は、ほんらいすべてが唯一無二の個性を有する人間に、逸脱者というカテゴリを生じさせる。逸脱は行為により判定される。他者なくして社会は存在しない。その人の世界に人間がただひとりきりならば、たとえ社会がその人の世界の外にあったとしても、その人は制限のない自由を有する。神を知らなければ、おのれのすべてを見つめ判じる存在などありえない。ひとたび他者がその人の世界に侵入すると、その人はただひとりではいられなくなる。その人の行為は他者に見つめ判じられつづける。

自由であるためには秘することが求められる。社会のなかでは、真の意味で思ったことを思ったままに行う自由は存在しない。だから、もし。もしおのれのすべてを内面からさらけ出していられる誰かがその人にあらわれたとき、それは愛に結びつく。その人をその人のまま認める誰かは、すなわち、その人をその人のまま、その誰かの世界に存在することをゆるすのだ。
愛によって世界は交わる。
そのときもう二度と孤独は訪れなくなるのだろう。
永遠に。

 ○

本当にとてもいい映画なので、今回はいつもより長く、そして拙いだろうが私が学んできた知識にもとづきながら「映画を紐解く」ような試みをしてみながら、感じたことをまとめようと思う。
pixivFANBOXに投稿した「劇場版 レヴュースタァライト ワールドスクリーンバロック」の感想が感性中心になったので今回はもうちょっとしっかり文章にしたつもりだ。思いのほか長くなってしまったが、印象派が登場した時代の時代背景とそれを踏まえた考察のパートなどよく書けたと思うので、お楽しみいただければ幸いだ。


また、先に、以下の文章は私が大学一年生の時期に学んだ表象文化論の講義資料と講義内容を参照していることを明らかにする。以下につづける時代背景の確認は、ほとんど講義そのままだ。その時学んだ考察には先行研究が存在しているはずなのだが、今回参考資料として必要な情報を集めることができなかったため(また筆者の母校を伏せる目的もあり)ここでは割愛させていただく。偉大なる先人たちに大きな感謝を捧げながら、拙文を続ける。


以下の文章には映画本編のネタバレと、イングマール・ベルイマンの映画「仮面/ペルソナ」の詳細なネタバレが含まれている。
また、「男性的」「女性的」という表現が登場するがこれはいわゆるステロタイプを強調する意図で用いていない。
ある言語には「男性名詞」「女性名詞」が存在するが、これはことばの性質に関して男性的/女性的だと感じるその言語の感性を表現する。
拙文では映画の時代背景と、旧来の社会における性役割がある記号に付与してきた男性/女性的性質を指摘するためにこの男性的/女性的という言葉を用いた。可能なかぎり本意が伝わるように書いたつもりだが、力不足により本意を誤解されたくないので、表現におかしな箇所があったら指摘していただきたい。

時代背景の確認と前半部の考察
~「見る」文化の時代に女性が女性を描くということ~


・時代背景

「燃ゆる女の肖像の舞台」は19世紀、絵画でいうところの印象派の時代だ。この映画はおそらく私が気づいていないだけで画面構成がときおり絵画から引用されているのだが、ラストシーンの画面構成――ある女の横顔を、円形の観客席から、向かいから見つめるという構図はピエール=オーギュスト・ルノワールの「はじめてのお出かけ」に一致する。

このラストシーンにおける女優アデル・エネルの「衝動」に耐えながら涙を流す演技が見ていて胸が張り裂けそうになるくらいこちらの感情がキャラクターに引っ張られてぐちゃぐちゃになる名演技なのだが、この「衝動」に耐えるという沈黙の演技こそがこの映画の本質である。
この「沈黙」という行為の意味は後に詳述するとして、まずは大学教養の講義でまなんだ知識をもとにこの印象派の絵画の特徴を説明し、それがこの映画の「抑圧」という背景にどう結びつくか記述しよう。

先述したようにルノワールの「はじめてのお出かけ」は、円形の観客席において向かいにいる女性の横顔を描く構図を採用している。絵画における視点者の位置を問題にするとき、この構図は、視点者が一方的に被写体を見る、という特徴を持つ。被写体は当然、視点者の存在に気づいてもいない。この構図は「窃視」の構図、盗み見ている構図だと言える。

窃視の構図は視点者を透明化する画面構成。同時代のドガによる「バレエのレッスン」はまさにその好例だろう。絵画に描きとられた女性たちはみな絵画の視点者に気づいていない。視点者はまるで万能の神のように、自由に、対象を観察することができる。この視点者と被写体の一方的な関係性は、絵画における被写体をよりいっそう記号化する。

紙に書かれた目のイラストどころか、点が三つ並んだ記号にさえも人間は視線を見出す。見られていると感じるとき、人は自分の行動を抑制する。どう見られるかを意識するからだ。それゆえ被写体は窃視の構図によって物的存在としての側面が強調される。その肉体や装いが物的にどうであるか・どう見えるか。語弊を招きかねない言葉を使うなら、窃視は身体をモノ化する。

また、窃視という構図は被写体を素顔を見ているように錯覚させる構図でもある。バレエのレッスン場や劇場の向かいの個人席は、誰かに見られることがないはずの場所だ。窃視は他人のプライベートを覗き見している状況において特にその印象を強める。
印象派の画家たちを糾弾したいわけではない。主張したいのは、19世紀とはそういう時代だった、ということだ。
パリの街にいまなお残る「パサージュ」はまさにこの印象派が登場する時代に登場する。パサージュとは19世紀以降のパリにみられる、ガラスのアーケードのついた歩行者専用の商店街を指す。歩道が整備されていなかった19世紀、歩行者を呼び寄せる商業施設として流行した。雨に濡れる心配もないパサージュには人々が溢れかえったという。印象派が登場した時代というのは、パサージュの登場によって「なにかを見る」行為が流行した時代なのだ。

つまり「燃ゆる女の肖像」の時代とは、なにかを見ること/見られることが流行した時代であり、誰かを一方的に観察することが絵画の題材になった時代であった。

ところが、話はこれで終わらない。
劇中でも語られるように、この時代女性の画家にはさまざまな制約が存在した。女性が描ける絵の題材は限られていたから、こっそり描くしか方法はなかった。
また同じ印象派の絵画を見ても、作家の性別が絵に反映されている。先述したルノワールの「はじめてのお出かけ」やモネの「サンタドレスのテラス」などは、いわゆる社交の場を題材にしている。いっぽう同時代の女性作家が題材にしたのは、モリゾ「読書するふたりの女」「カサット「庭で編み物をするリディア」のように、家庭のなかであり、庭先である。アクセスする都市空間がまったく異なるのである。
あらためて言うまでもないことだが、19世紀という時代は女性と男性の社会的性役割がハッキリ分けられている時代だった。

さらに、女性が社会においてどのような立場にあったか考察するうえで象徴的な絵画として、カサット「特別席(桟敷)」がある。この絵画には二人の女性が描かれているが、一人は扇で口元を隠し、もうひとりは伏し目がちに唇を引き締めている。そして背景に描かれているのは、まさに窃視の視点者が腰を下ろしているであろう、ホールの観客席である。
カサットは「オペラ座の黒衣の女」という絵も残しているが、観客席から舞台をみる女性を大きく描いたこの絵はその奥に、舞台を見ている女性をオペラグラスで観察する男性をどこかコミカルにすら思えるくらい大げさに描いている。

女性はこの時代、行動を制約された、他人の視線にさらされる存在だった、と結論できるだろう。

すなわち、19世紀という時代は、一方的になにかを見ることが流行した時代であり、そして多くの場合男性が女性を見ることが当たり前の時代であり、社交の場というおもに男性がアクセスする都市空間は「男性が女性を一方的に見る場」だと考えることができるだろう。

・沈黙の意味、視線の意味(ベルイマン「仮面/ペルソナ」を踏まえながら)

以上長くなってしまったが、この時代背景を踏まえて「燃ゆる女の肖像」の基本筋――「女性画家が、これから社交の場に出る女性の肖像画を描くことを通じて、互いの本心に近づいて、互いに愛を向けるようになる」ことがどんな意味を持つか考えるてみると、この映画で描かれた関係性は禁断の愛、といったジャンル的タームで済ませられない、と私は感じてしまう。

「燃ゆる女の肖像」において、画家マリアンヌは貴族の次女エロイーズの肖像画を描くように依頼される。ミラノの男性に肖像画を贈り、気に入ってもらえればエロイーズはその男にとつぐことになる。時代背景を踏まえてみると、マリアンヌが肖像画を描くということは、まさに「一方的に」エロイーズを鑑賞する男のために、エロイーズという女性の、同性でしかおそらく見ることができない表情や態度まで「観察」しながら、絵にエロイーズの美を写し取る作業を意味しないだろうか。
これだけでも心が揺さぶられるのだが、マリアンヌとエロイーズのやり取りが、前半……マリアンヌが最初の絵を完成させるまでの間ほとんど表面的なものに留まっていたのはなぜかというのも、この時代背景をもとに考察することができる。

まずエロイーズの寡黙……内面をほとんど明かさない「沈黙」から考察しよう。
私は先程19世紀は「男性が女性を一方的に見る」場があった時代だと述べた。これは、男性にとっては社交場で女性を見ることは素顔を見ていると錯覚させたかもしれないが、視覚時代の私たちには当たり前に共有されているように、社交場で人々が見せる顔には素顔などなく「見られることを意識した」姿しか存在しない。インスタグラムでは自分の生活の見栄えのいい部分だけを強調したり、あるいはメイクやオシャレをして自撮りしてUPしたりすることは当たり前のことだ。Twitterでは炎上回避のために本音を隠してあえてセンシティブな話題に「沈黙」することはよくあることだ。まさにいま言及してしまったが、「見られることを意識した」とき、見せると都合の悪いものは「沈黙」するのが一番良い。

そしてエロイーズが住む離島の屋敷は、彼女を嫁ぎ先に送り出そうとする母親の領土そのものである。エロイーズの母は、母としての役割以上に、映画における言動を見てもいくつかのシーンを除いては、ほぼ全てにおいて‏ミラノにいる「嫁ぎ先の男性」の代理人であるかのごとく振る舞う。母親の領土においてエロイーズは常にパリにおける劇場=他人に「表に出しているもの」を評価されている。修道院という、神に対する祈りと労働だけで完結していうた世界から引き戻されたエロイーズが内面を「沈黙」することを選ぶのは、こう考えると当然じゃないかと思えてくる。

(あとこれは書きながら思いついたことだが、エロイーズの姉が自殺した理由はこの時代背景のストレスに求めることもできるかもしれない。私は男性だが正直想像してて「地獄じゃん……」と思ってる。ヴァイオレット・エヴァーガーデンの劇場版の描写の解像度もついでに上がって今胃が痛んでいる)

そしてエロイーズの沈黙は、同じくマリアンヌの沈黙も説明する。物語の前半でマリアンヌは、同性の友人としてエロイーズに接してその内面を引き出しながら、まさに「窃視」を通じて肖像画を描く画家として内面をひた隠しにしなくてはいけない。これはマリアンヌの女性という性別、女性画家というアイデンティティにとっては正反対の行いである。マリアンヌの行為はミラノの嫁ぎ先の男、そこに送り出したいエロイーズの母親、そして画壇の男性画家を代理する。時代背景に基づくならば男性的な行動を、エロイーズを騙しながら実行いなくてはいけないストレスを想像して私は鑑賞中ずっとうめいていた。

しかもマリアンヌは女性だ。彼女がエロイーズを騙すために本心を沈黙するとき、彼女が表に出す人格はおそらく「誰かに見られることを前提とする」顔にならないだろうか? 
マリアンヌとエロイーズは、まるで互いの正体を探り合うスパイのように、ウソと本音を入り交えながら、少しずつ距離を縮めていく。マリアンヌの罪悪感は次第に募り、エロイーズは警戒を解くほどに裏切られたときの痛みを増す。
そんな心理戦めいた映画前半部でなにが登場するかというと、イングマール・ベルイマン監督による映画「仮面/ペルソナ」に出てくる印象的な構図のオマージュ……というかそのまんまの構図なのだ。

ベルイマンの「仮面/ペルソナ」は突如「沈黙」をえらんだ女優の本心を探るために、女優が入院した精神病院につとめる若い看護婦が、院長のはからいによって都会から離れた別荘にて二人きりの生活をおくるうち、互いの本心を知っていく物語だ。
強調してみせたように、ベルイマンのこの映画には「沈黙」が大きな役割を果たす。
内容のネタバレになるのだが、この映画における「沈黙」とは本当のことを言うための・表現するための道具として描かれる。言葉を使うと、その話し方や声の調子で、その人はある人格を演技することになる。言葉を使ったままでは「演じること」から離れられない。だから「沈黙」するのだ、と。

ベルイマンの映画は女性が二人きりで生活し、一方は多弁に語り、一方は沈黙を貫く。多弁に語っていた看護婦は沈黙の中に許容を錯覚し本心を語りすぎて、沈黙していた女優の本音を知ることで「裏切られた」と感じて激昂する。沸騰したお湯をかけようとしてでも本音を声に出させようとするくらいに看護婦は追い詰められていくのだが、燃ゆる女の肖像で引用された構図とは、まさにそのすれ違いと決裂を暗示させる構図――横並びに並んだ二人が、一方がもう一方を「一方的に見つめる」構図なのだ。
私はこの構図が出てきたとき「やりやがった!!!」と悲鳴を上げた。ただでさえ音のない、緊張感を強いる映画なのだ。エモーショナルでパワフルな最新の映像美でベルイマンの「仮面/ペルソナ」もかくやの感情のぶつけ合いを見せられるのかと思ったらほんとに死ぬかと思った。
悲鳴を上げるのも許してほしい。

さてそんな構図が出てきた前半部は、しかし「仮面/ペルソナ」とは異なる形で決裂を迎える。
エロイーズを騙し続けていた(つまり、騙すための「沈黙」を貫いていた)マリアンヌは罪悪感に屈してエロイーズに真実を伝える。エロイーズは「見られている自分」らしき表情を演じながら、ここでまさに19世紀の一方的な「見る」文化の批判のごとき会話をマリアンヌと交わす。
ちょっとした表情の変化から感情を推察するマリアンヌに対して失笑を浮かべたエロイーズは「観察する側ですから」と当時の画家のテンプレみたいな言動を述べるマリアンヌをそばに呼び寄せ、マリアンヌがエロイーズに向かってしたのとまったく同じように「観察」によって感情を推察してみせる。
エロイーズはマリアンヌをそばに立たせ、キャンバスに立つ画家を見つめる彼女の視点を模倣させながら、絵画に描き取られる対象は「描き取られているとき、観察しているのだ」と言い返す。
そして画家であるマリアンヌの自尊心を最大限傷つける言葉を言い放つ。
「この絵は私に似ていない」
おまえの観察は不十分だ、を意味するこの言葉は、女だてらに画家として活動してきたマリアンヌの自尊心を、そして父がかつて描いた絵を信頼されて仕事を任されたプロフェッショナルとしてのプライドをずたずたにするには十分どころかオーバーキルだ。
ただでさえ騙していた罪悪感を抱いているから立場が弱いのに、そのうえ仕事にまで文句を言われる。しかもマリアンヌ自身、エロイーズに同性の友人として接していくなかで観察不足を自覚している。マリアンヌが満足行くように描けたのはおそらくエロイーズの手の形だけだ。
エロイーズに「これが私?」と問われて「規律、歴史が支配しています」と返したように、マリアンヌが描いた絵は窃視という男性的行為を通じて、肖像画のテンプレートに沿って描いたお仕事絵画そのものなのだ。自由に描けない不満を抱えてきたマリアンヌが、思わずせっかく描きあげた絵の顔の部分を布で拭い去ってしまうとき、いったいどれだけの感情がその心に渦巻いていたのだろう。
この作劇を、ベルイマン映画の構図を利用しつつ、19世紀の背景知識がなくとも十二分に伝わるように表現しきったこの映画は本当にすごい。

またここではもう一つの窃視が明らかになっていることも指摘しなければならない。エロイーズもまたマリアンヌを観察していたという事実とマリアンヌの視点ではエロイーズを一方的に盗み見ていたように描かれていることを思うと、マリアンヌもまたエロイーズによって窃視という男性的視点にさらされていることが推察される。

さて、肖像画を拭い去ったマリアンヌは描き直しを申し出て、今度はエロイーズはモデルになることを引き受ける。渋る母親は本土へ行くといって映画から一時退場し、屋敷にはマリアンヌとエロイーズ、そして今までほとんど黙ってきた侍女の三人の女が残される。本土の男性性を象徴してきた母親がその領土を不在にすると同時に、マリアンヌは本国の男性画家の真似事をやめ今度こそ本当に同性の友人としてエロイーズに接するようになり、エロイーズもまた「沈黙」をやめて「他人に見せるべき自分」ではない自分を表に出すようになる。記号的なレベルでも象徴的に、映画は次のステージへ移行する。

(後半へつづく)

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