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【短編小説】夜中の事(1)

ある夏の出来事だった。

当時、私は就職のために東京に越してきたが、高額な家賃を支払う余裕はまるでなく、やむを得ず会社から遠く離れた地価の低い郊外へと住居を構えた。毎日我が家から会社まで、そして、会社から我が家まで片道1時間半の道のりを電車で通う。それが私の日常だった。

その日は朝から仕事は山積みで、夜遅くまで残業していた。一刻も早く仕事を片付けて、ただ家へ帰りたい。そんな一心で仕事を終えたはずが、帰ろうとしたその時、社内に残っていた部長に急に飲みに誘われた。

(明日も朝から仕事だぞ。冗談じゃない。)

私は本当は帰って休みたかったが、何も言い出せず、結局は部長と数人の同僚に誘われるがままに飲みに行くことになった。

「明日も仕事があるだろうから、今日は早めに解散にしよう。明日が休みだったら、みんなで朝まで飲んだのになぁ。」

ひとしきり騒いだ後、部長がそう言いながら解散を促したが、遠方から通う私にとっては終電ぎりぎりの時間だった。部長は店の前でタクシーを拾い、帰っていった。部長を見送った私はタクシーが見えなくなると、急いで駅へと走り出した。

もう日が変わる頃だというのに、街は30度を超える熱気に包まれていた。私は息を切らしながら電車に飛び乗った。暑い中走ったせいで、電車に乗る頃には全身汗でびしょ濡れだった。汗ばんだ背中にシャツがべったりと張り付いて気持ちが悪い。私は不快さを感じながら、座席に腰かけた。車内には、私と一席開けて隣に座っていたもう一人の乗客しかおらず、揺れる電車の音だけが響いていた。

列車が進むにつれ、息切れは少しずつ落ち着いたものの、汗は引かずに不快感だけが増していった。空調が壊れているのだろうか。車内にはまるでサウナのような熱気が充満しており、心なしか異臭も感じる。私は淀んだ車内の空気に耐えられず、酒の勢いも手伝って、隣の乗客に声をかけずにはいられなかった。

「空調、効いてなくないですか?暑いですよね?」

男は突然の声掛けに少し面食らったようだったが、この暑さは誰にとっても避けがたかった。男も同じ思いだったのだろう、渋々、「まあ、暑いですね」と応じた。私は男が返事をしてくれたのが嬉しく、勢いを増して言葉を続けた。

「こんなに暑い日に空調が効かないなんて、明らかに怠慢ですよね。ちょっと変な匂いもするし。こっちは仕事で疲れているっていうのに。みんな自分さえよければ、他の人のことなんてどうでもいいってことですかね。」

私は空調への不満を口にしていたが、本当はただの疲れと日々の職場へのフラストレーションの表出に過ぎなかった。愚痴を並べ立てていると、男が顔をしかめるのが目に入り、冷静になった。

「すみません、ちょっと愚痴ってしまいました。」

私は謝りつつ、気まずい空気を変えたく、話題を変えようと思った。

「そうだ。話は変わりますが、二人で怪談話でもしませんか?こんなに暑い車内ですから、ちょっとした気分転換になるかもしれませんよ。」

男は少し考えた後、「いいですよ」と言った。見知らぬ赤の他人。しかも、男が先ほどまで私の愚痴にうんざりしていたことは明らかだったのに、なぜ怪談話を受け入れたのか、その心中は私にはわからなかった。自分から提案しておきながら、私は男が怪談話に乗ってきたことに驚きつつ、怪談話を始めた。


「……には今なお子を亡くした母親の怨念が渦巻いているとのことです。子を想う母の愛情は今では子を持つ親への恨みとなり、仲のいい家族を自分のもとへと手招きしているという……。」

私は怪談話が一通り終わると、男に感想を求めた。「どうでした?」と問いかけると、男は「母の愛が怨念に、ですか。まぁありがちな話ですね」と返した。私はその言葉に少しだけムッとしながら、「じゃあ、次はあなたの番ですよ」と男に話を促した。男は黙り込み何かを考えていたが、しばらくすると、「では私も、母と子にまつわる話を一つ。これは私の知り合いの話なんですが……」と語り始めた。

「その知り合いのことを、ここではKと呼ぶことにしましょう。Kはサラリーマンの男と水商売の女の間に生まれました。Kの両親は夫婦ではありませんでした。夫婦というより、むしろ店員と客という方が正確な間柄でした。

男と女が出会った当時、男は三十過ぎで、有名商社で働いていました。彼は世間一般に見ても高給取りの部類だったようです。彼には妻子がいて、夫婦仲もよかった。彼は夜な夜な遊び歩いていましたが、家に十分な生活費は入れていたし、休日は家族で仲良く遊びに出かけることもあり、少々の遊びぐらい、と奥さんも容認していたのでしょう。この男が一体どれほどの女性と遊んでいたかは分かりませんが、女は彼がよく遊びに行っていた店の店員で、彼の遊び相手の一人でした。

彼女はまだ20歳そこそこでしたが、高校を卒業すると同時に水商売の世界に足を踏み入れ、すっかりその世界に毒されていました。男と出会う頃には、男女の情愛というものは金銭得るための手段に過ぎず、心のないままに愛を語ることがいかに利益につながるかを熟知していました。店での稼ぎと男たちの愛人としての稼ぎ。彼女は若くしてそれなりの金を手にしていましたが、彼女にとってお金は簡単に手に入るものであると同時に、簡単に使い果たすことができるものでもありました。仕事や人生のストレスを発散するために湯水のようにお金を使って自分の欲望を叶える。今だけを生き、将来は考えない。これが彼女の本質でした。

二人の関係は数年間ほど続きました。男が女のことを気に入り、頻繁に店に通って回数を重ねる内に、二人は店の外でも会うようになりました。二人で食事に行って、お酒を飲んで騒いで、それから共に一夜を過ごす。そんなことを何度も繰り返しました。

もちろん二人の間に愛情なんてものはありません。男にとって女は性欲処理のための遊び相手であり、女にとって男は羽振りのいい小綺麗な客でしかありませんでした。

ある時、女は彼の子を妊娠しました。"彼の子"とは言いましたが、本当にその男の子供であるかは分かりません。というのも、彼女には男の他にも似たような客が何人かいたからです。女が妊娠に気づいた頃には、もう中絶できないぐらい成長していて、産まざるを得ない状況でした。女が彼の子に違いないと考えたのは、彼女にとっては、それが一番ましな選択肢であるように思えたからでしょう。

彼女は男に妊娠の事実を伝えませんでした。妊娠の事実を伝えれば男は自分から離れていくかもしれない。それなら子供を黙って産み、この関係を維持した方が得られるものも多いと思ったのだと思います。幸いなことに、女の腹は妊娠後期になってもそれほど目立たず、出産前の一ヶ月ほど何かの予定をでっちあげて男に会わないだけで簡単にごまかすことができました。そうして生まれた子こそが、お察しの通り、Kでした。

女は自分の腹から生まれてきた子供に全く愛情を感じませんでした。それどころか、疎ましく思っていました。言うなれば、女にとっては、好きでもない犬や猫をペットとして育てなければならないようなものです。飼いたくもないペットに毎日餌をあげたり、排せつ物の片づけをすることを想像してみてください。自分が飼いたいわけでもないのに毎日大変な思いをしないといけないなら、さっさと保健所に引き取ってもらおう。そう思う人がいてもおかしくないでしょう。正直なところ、女にとっては、ペットもKも似たようなものでした。ただ一つ違う点は、Kにとって幸か不幸かわかりませんが、人を処分してくれる保健所はないということだけでした。

女が子供を産んだ後も男との関係は続いていました。子供を産む前と何も変わらない二人の逢瀬。でも、それも突然終わりを迎えます。何があったわけでもありません。男が女に興味をなくしたか、別の女ができたか、はたまた、それ以外の理由か。いずれにしても、男はある日を境に女に会いに来なくなりました。

こんなことなら子供の話を出してお金をもらっておくべきだった。女はそう思いました。でも今更になって、女は男のことをよく知らないことに気づいたのです。彼が大手企業の商社マンであるとは聞いていましたが、具体的になんという会社だったか。東京のどこそこに住んでいるとは言っていたが、なんという駅だったか。そもそも、男が遊び相手に語った一言一言が本当に真実なのか。男が彼女からの連絡を拒否すれば、それで二人の関係は終わり。それは二人の関係性からすれば当然の結末でした。」


私はこの男が一体何の話をしているのかわからなかった。そもそも、これは怪談話なのだろうか。だが、私は既に男の話に惹かれていた。この話が男の言う通り知り合いの話なのか、それとも男自身の話なのか、あるいは全くの作り話なのか、私には判断が付かなかった。いずれにしても、この話の終着点が知りたくて堪らなかった。


「二人の関係が終わった頃、Kは5歳になっていました……。」

(続く)

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