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特集:行き詰まった時

SNSで見かけて特集タイトルに惹かれ、衝動買い。執筆者の方々を拝見すると、とても多彩で記者や書籍店店主の他にも、アーティストの方や文筆家など、多くの方の「行き詰まった時」の話が載っている。

今年35歳、長らくインターネットの海の中にいる自分だが、各種SNSは殺伐としていることも多くなり、個人の趣向としては、noteはクオリティがバラバラで有料のコンテンツや「資本主義の匂い」が強くなってきたこともあり(上場したので仕方ないことだと思うが)、一周回ってまたこういった「ミニコミ」の類に興味が戻ってきた感じがある。

1960年代から70年代にかけて、社会運動の盛り上がりの中、多くの報道は、大手新聞、週刊誌などの雑誌、数局しかないテレビラジオ、というマス・コミに頼っていた。しかし、その取材は、一定の視点からの記述にとどまっており、多くの読者、視聴者が不満を感じた。そこで、現場にいた当事者たちが、マス・コミに取り上げられない事実、あるいは主張や議論を、自ら発しようとした。その時の手段は、電波や大型印刷機というメディアを使うことができず、当時の質素かつ簡易な印刷手段であったガリ版印刷などで行われた。

 配布は、主に友人から友人へなどの手渡しが主で、遠方への郵送も広く行われた。当時多く発行されたビラのような単独のものではなく、明確な編集意図をもって複数ページが閉じられ、号を重ねる印刷物も多くあった。目的や規模によっては、キチンとした活版印刷オフセット印刷などで行われ、蔵書に耐えうる製本技術に支えられた印刷物も多く発生した。

 1970年代後半になると、規模の小さな雑誌や、ラジオの深夜放送、地域メディアなど、コミュニケーションの手段が多様化、細分化され、いわゆるミニコミというジャンルは消えていった。80年代から90年代にかけて、パソコン通信インターネットなどの発達により、個人が情報を発する手段は増えていったが、概念としてのミニコミは、このような情報手段に移行していったと考えられる。

 21世紀におけるSNSなどの現象は、ある意味、現代におけるミニコミといえ、その精神において、マスメディアに頼らない、独自性をもった精神活動であると解釈することも可能であろう。ミニコミという言葉は、その精神性の高さから、キチンと歴史的に評価され、記憶される必要がある。

Wikipediaより抜粋

なるほど、インターネットに駆逐されるように下火になっていたと思われる「ミニコミ」であるが、昨今のレトロブームの影響もあるのか、令和になってからブームが再燃しているようだ。日経新聞で「ミニコミ」と検索をかけてみても、2010年代は記事がさっぱりないが、直近、とても盛り上がっているのが分かった。

元々、インターネット上で気軽に同じ趣味を持った人同士が繋がれる「ツール」だったSNSに「インフルエンサー」なる者が現れ巨大な影響力を持ち、それを利用する「企業」が多く参入してきて、最早、自分にとってはよく分からない世界になってしまった。

SNSにおけるキャンセルカルチャーも強すぎてさすがに辟易と皆してきている気がするし、神格化されていた有名人の「あの人も良く考えたら人間だもんな」なんて瞬間も増えてきて、なんだか随分と景色が変わってしまった。結局、学生時代の友人なんかもいなくなっているし、かといって、社会人になってからの新たなつながりもSNS上では何だか作りにくく(余程親しいか、興味がないとわざわざSNSでは繋がらないだろう。)「フォロー/フォロワー」との関係性が希薄化しすぎた結果、新たに「コミュニティ」を求めて彷徨い、結果、廃れたはずの「仕組み」に回帰するのは非常に人間らしく面白い。

こんなネット記事なんかもバズっていたな。

自分が行き詰った時、救ってくれたのはSNSだった。そこから出会ったミニコミが、少し自分の歩く道を照らしてくれたのは救いだった。そういった出会いがもたらされる時点で希望はある。

ミニコミの復興だけでなく「本」が売れない時代になっても、新しいアプローチは次々と生まれている。

行き詰まりなんかはほんと、自身の捉え方次第であり、何度でもやり直せる。そんな世の中になると良いなと思う。

ようやく「TAR」を見ることが出来たが、今の気分がこんな感じだったからなのか、オチは秀逸で、希望があるように見えた。結局、コミュニティが変われば見え方も変わるし、取り巻く人間たちも捉え方次第で(自殺してしまった人は本当に悔やまれるが、、、)やり直しがきくはずだ。

行き詰まっている場合ではない。

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