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糸井さんと羽生さん⑨ ~表現と時代~

ほぼ日さんでの糸井重里さんと羽生結弦選手の対談、Day9。

すぐには伝わらなくても、
人の価値観って、そうやって、
変わっていくものでもあって。(羽生さん)


本人からすると妥協だったかもしれないものが、
一番、人の心を動かしたりもするし。(糸井さん)

このあたりの話、僕は大好きだ。

僕の場合は規模も範囲も小さなものだけど、それでも「何かを表現する難しさ」には日々向き合わざるを得ない。そしていつも壁の前でジタバタしている。

でも、おふたりのようなトップランナーでも、その部分を「難しい」「壁」と感じていることがわかるだけで、

「よし、僕もその難しさに向かっていこう、きっとその価値があるはずだ」

と前向きにとらえられる。つくづく、言葉とは何を言うかよりも、誰が言うかだな、と思う。

そんな中、羽生選手は、「つらさ」「ジレンマ」を率直に言葉にしている。ここに僕は肉体表現のトップランナーの苦悩のようなものを感じた。

ざっくり言えば、とんでもないレベルのものって、理解できる人の数が減ってしまう。図形で「円錐」ってあるけれど、頂点に近づけば近づくほど、その高さでの水平断の底面積が小さくなるように。

あまりに高度なものは「見て」「聴いて」「体感して」つまり受信者として感動することはできても、その高度さを「身体を通じて、実感として感じる」のは難しくなる。

仮に、世界一物真似が上手な人がいるとして、羽生選手の喋り方の物真似、あるいは表情の物真似はできても、4回転半ジャンプの真似はできないだろう。できたら、その人は羽生結弦選手ということになる。

このあたりは、肉体から離れて存在できる表現と、肉体性を伴う表現の構造的な違いのようなものが根底にあるのかもしれない。

そういえば、以前、パフォーマーやプレイヤーからの羽生結弦選手へのリスペクトはハンパ無い、という内容のことを書いたことがあったけど、


身体を動かす人ほど、彼のパフォーマンスレベルのとんでもなさが、「視てとれる」ゆえに「リアルに感じられる」のかもしれない。

この流れの中、糸井さんは『MOTHER2』について再び語る。

いま羽生さんみたいな人に会うと、
あれをわかってくれたんだっていう
うれしさが間違いなくある(糸井さん)

SNSの時代になって、すぐにバズるもの、すぐに拡散されるもの、すぐに理解されるもの、とにかく「すぐに」が加速してしまっている気がするけれど、「すぐに」だけがいいというわけじゃない。

3年、5年、10年、あるいはそれ以上が経過して、時代の変遷と共に理解されたり、理解のフィードバックがあったりすることもある、と気づく。

 そういえば僕が高校の頃、格闘技において寝技や関節は「退屈なもの」だった。そういう展開になると客席からも「立って戦え」「打撃で戦え」とヤジが飛んでいた。(言葉遊びみたいだけど、立ち技、打撃はキャッチ―なもの、相手をキャッチする技はキャッチ―じゃなかった)

 だけど、時代が動き、ブラジリアン柔術がメジャーになり、グーグルなどでも採用されるようになった今、寝技はスリリングで、緻密で、クリエイティヴなものに変わっていった。人々の認識が大きくかわったのだ。

 きっとそういうようなことは、いろんな領域において存在するんだと思う。フィギュアスケートを「やる」環境が今よりももっと整って、敷居の低いものになれば、「キャッチ―なレンジ」もきっと拡がっていくだろう。

 糸井さんたちがつくったMOTHER2が、時代と共に何度も再評価されてきたように、そして羽生選手との対話がMOTHER2との再会でもあったように、羽生選手の真の影響が形になったり、次世代の中で育ったりするのは、これからなんじゃないか。そう思うと、なんかワクワクしてきた。

それにしても、

 おふたりの「時代」への視線、そして「時代の変遷」を前提とした表現のとらえ方は、あらゆる表現者への大いなるヒントになる。そう確信した第9回だった。(続く)

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