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『キャリア教育のウソ』(児美川, 2013)

勤務校が地方私学らしく「これからの時代を生き抜く力」を育てるべく,将来の仕事のことを考えさせたりする機会を増やしている。

自分自身も担任する中学3年生に向けてキャリアの話や仕事の話をすることも少なくない。しかしその中で「やりたいことを探そう」とか「好きなことを見つけよう」と言うセリフを発する度に、それだけでいいの?と違和感を覚えてきた。

そんな中で辿り着いたのが児美川孝一郎(2013)『キャリア教育のウソ』である。

キャリア教育の偏り

筆者は学校で行われるキャリア教育の偏りを以下の二点に着目して指摘している。

①キャリア教育の焦点が,職業や就労だけに当たってしまっている。
②キャリア教育への取り組みが,学校教育全体のものになっていない。(教育課程から見て"外付け"の実践になってしまっている。)
(p. 44)

特にこの①について,どのような職業に就くかを考える上でそのテーマが「やりたいこと」に偏りすぎていると筆者は指摘する。(p. 63)

高校生の就きたい職業ランキングの上位は学校教員や医師・薬剤師など「専門的職種」に限られている。一方で世の中の仕事の中には「事務系」「サービス系」「技術系」など様々な種類の職業があり,実際にそういった職に就く者もかなりの数存在する。しかも,そのランキングを出した調査では「なりたい職業がある」と答えた者だけがその職業を回答しており,その結果専門職が並ぶということは,専門職以外の職業の仕事の中身がほとんど知られてすらいないということを示唆する(pp. 66-8)。

「グローバルリーダー」的な経営者やそれに近い層の人間が学校現場に「講演会」をしに来て,「夢を持て」「努力しろ」「挑戦しろ」「付き合う仲間を変えろ」という言葉とともに「やりたいことを見つけろ」という。
そこでは往々にしてその講演者自身の人生についても語られたりする。比較的平々凡々と生きてきた人間の多い「教員」という集団もそれに結構感化されがちかもしれない。
そうして,専門的職種に「憧れ」を持つ子どもが増えていく。

要は,イメージ先行やメディアの情報を鵜呑みにして獲得したのかもしれない「仕事」像をいったんは崩したうえで,多様な選択肢の存在に気づく必要がある。「やりたいこと」を考えたいのであれば,そうした広い意味での「社会認識」に基づく豊かな「土壌」を先に形成してほしいということである。(p. 75)

憧れることは別に悪いことではない。しかし,そこにその子の人間としての軸はあるのか。

筆者は「軸」を,技術系・事務系・対人サービスなどの中でどれをやりたいと思うのかという「方向感覚」と,何をやり遂げたいのかという「価値観」と表現している。(p. 78)

少し前に中学3年生に「あなたの挑戦したいことは何か」といった,【自分自身について語る系】のテーマで小論文を実際に書くことに向けた指導をした。その中で最後に引用したことばが生徒にもピンと来て良かったという感想をもらった。

なにがきみのしあわせ
なにをしてよろこぶ
わからないままおわる
そんなのはいやだ!

故・やなせたかし氏作詞の『アンパンマンのマーチ』の2番の歌詞である。

自分にとっての幸せや喜び,それを自分で理解できればいい。それこそが「軸」である。

ちなみに,自分が中学3年生の頃を思い出して書いた小論文では「私は将来サッカーの指導者になりたい」と書いた。
その理由は「人の成長を見るのが好きだから」「教えることを通して人の役に立てていることに幸せを感じるから」だ。
10年前,15歳の自分がこの言語化を出来ていたかは定かではないが,当時の気持ちとして嘘ではなかったと思う。
結局はサッカーの指導者ではなく英語教師になっている。サッカー部の顧問ではない。

「サッカー」と「教えること」どちらも自分の軸になれるぐらい強烈な存在である。三重県出身の私が,地元の三重大学にも英語教育の学科はあったにも関わらず,そして旧帝大レベルも正直行けただろうにも関わらず,静岡の大学に進学を決めたのはJリーグをコンスタントに観戦するためである。
今でも何らかの理由で英語教育に関わることを禁じられたとしたら,おそらくサッカー関係の仕事を探すだろう。

ここ数年では「クイズ」「K-popアイドル」「筋トレ」などちょくちょく新たな趣味に出会ってきたが,どれも自分の軸にはなり得ない。明らかに教育やサッカーへの想いとはその大きさも質もまるで別物である。

この見極めが出来なければ,「伊沢拓司みたいになりたい!」とクイズの知識・技術の習得に励んだかと思えば,「J. Y. Parkみたいになりたい!」と可愛い女の子を探す旅に出てしまうかもしれない。

「やりたいこと」の他にあと2つ

生徒の「やりたいこと」の内実が怪しいということは上述の通りであるが,それに加えて「やりたいこと」への偏りは大人となって社会に出て行く準備にしてはあまりに浅いキャリア教育を生み出してしまう。

人が仕事をするとは,個人が好きなことをして,自己実現を目指すという側面だけで成り立っているわけではない。仕事には,社会的分業の中でどこかの「役割」を引き受けるという側面がある。(p. 86)

だからこそ子どもたちには「やりたいこと」以外に,「やれること」「やるべきこと」を日々考えさせることで,キャリア形成の実現可能性が増すと筆者は主張する。(pp. 85-7)

私が少々難しさを感じるのは「やりたい」「やれる」「やるべき」の度合いの問題である。

「やりたい」には興味の強さ,「やれる」には能力・環境の要因,「やるべき」には(全容を把握するのも困難な)社会からの要請の強さが関わる。

本書86ページには「やりたいこと」「やれること」「やるべきこと」の重なるところに網掛けがされたベン図が描かれているが,それぞれの領域は果たして平面なのだろうか。

自分にとってそこそこ「やれること」が,社会からはかなり強く「やるべき」とされていて,それに対して少しは「やりたい」気持ちがあるといったこともあるはずだ。
というか,ほとんどの働く大人はその「やりたいこと」「やれること」「やるべきこと」の立体的関係の中で折り合いをつけているはずだ。
平面的なベン図で子ども達に示してしまうことは,「この3つが重なる領域僕には何もないんですけど」という反応をかなりの確率で引き出すことになるだろう。

正社員信仰

本書の終盤で批判の目が向けられているのは,「正社員になってそれなりの暮らしを安定して続けられるだけの収入を得ましょう」という「正社員モデル」だ。

もちろん,大企業の倒産や大量リストラなどがもはや珍しいことではなくなってきた時代で「正社員になれば安泰」というのは甘すぎるという側面もある。(pp. 141-4)

しかしそれだけではない。

確かに非正規雇用やフリーターと比較すれば正社員というのは安定しているかもしれない。目の前の生徒・学生達にそのような将来を望むのは教育者としても極めて自然な感覚かもしれない。
だが,現実には非正規雇用で働く人が多くいる。望んでそうしている人もいるが,そうでない人ももちろんいる。そのような現実がある中で全員に「正社員になれるように頑張れ」というメッセージを送り続けるだけのキャリア教育では明らかに不十分なのである。(p. 146)

このような状況を受けて,筆者から若者へのメッセージは以下の通りである。

重要なのは,いつ訪れるのかはわからない「いざという時」を意識し,しっかりと"腹をくくる"ことである。そのためには,ふだんから自分を磨いておくこと,頼りになるネットワークを築いておくことが,結局のところ有益な「セーフティネット」になるだろう。(p. 164)

本当にこの時代に生まれた子ども達は大変だ。

こんなことを教師が言うべきではないかもしれないが,可哀想だとすら思う。

人間が作ったはずの社会が多くの人間にとって厳しいものになっている。

政策を立案する大人達のことが信じられず,選挙の公約も「どうせ選挙戦が終わったら消えていくんだろう」という気持ちになる。

正直この時代に我が子を持ちたいとすら思えない。我が子をこの国,この時代に幸せにしてやる自信がない。

昔から「ネガティブだよね」と頻繁に言われてきたが,この時代にポジティブになれるほど自分は非凡ではない。

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