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「英語」という教科を好きになるより、もっと大切なこと

坂本拓弥(2023)『体育がきらい』ちくまプリマー新書を読んだ。

英語教育に引きつけて読みたい・考えたい箇所のほとんどについては、関西大学の田村先生の記事にまとめられているので、重なる部分はここでは割愛する。

私がこれから引用する第六章の文章は、この本の「オチ」にあたる部分とも言える。そういう意味では引用するか迷うのだが、英語教育に関わる者として無視できない文章だ。

たとえ学校の体育の授業が嫌いであったとしても、それは運動や「体育」、そしてみなさんの「からだ」にかかわる現実の、ほんの一部でしかありません。したがって、そのせいでこれから何十年と続くみなさんの人生のなかで、からだが変わり、多くの新しい経験ができる可能性を閉ざしてしまうのはあまりにももったいなと、一人の体育の先生として思います。「からだを豊かに変えていくこと」としての本当の「体育」は、もっと自由で、もっと面白く、そして、きっとすばらしいものだと思うのです。

p. 207

学校の英語の授業が嫌いであることは、英語という言語をその人なりに用いることで出会えるかもしれない人やもの、文化や経験を丸ごと拒否することになるのか。そうであってはいけないと私は思う。

我々が「英語が好き」とか「英語が嫌い」とか言うとき、そこには「英語の勉強が楽しい」「英語を話している人はかっこいい」「英語ができると世界の色々なところに行ける」「英語ができる人が鼻につく」「英語ができないせいで大学のランクを落とした」みたいな英語に関わる何かしらの「経験」や「想像」が結びついている。仮に「英語って日本語と違って語順のルールがうるさくてめんどい。冠詞とかもだるい」という人がいても、それは英語そのものへの嫌悪感ではなく、やはり非母語として英語を学ぶことに苦労した/しているという経験に基づいているだろう。
英語というのは個別言語の一つであり、色々な人の中に知識の体系として存在するものである。人の知識体系そのものに対して「好きだ」とか「嫌いだ」とか普通思わない。英語好きも英語嫌いも、英語に関わる何かしらの経験や想像に紐づけられた感情であるはずだ。そしてその経験や想像の多くを生み出しているのが「(学校)英語教育」だろう。英語の授業、英語の先生、英語の先生が語る英語ができる人生、受験における英語の重要性、エトセトラ,エトセトラ。

我々人間にとって「生きる」とは、人と関わることであり、社会につながることだ。言語は生きることを支えるものだ。その言語の中の一つに「英語」という選択肢がある。そう考えてみれば、やはり学校の「英語」の授業は(「体育」と同様に)かなり狭い世界に留まっている、あるいは「学校の英語」という一つの新しく狭い世界を構築していると言わざるを得ない。そして、そこでの経験や想像が「英語」の全てであるかのように、もっと言えば、(英語にしか出会っていないのに)「外国語」の全てであるかのように感じる人も少なくないだろう。
もちろん、学校で扱うことのできることには限界もある。そのことは否定しない。だが、我々は学校において限定的で閉鎖的な時間・空間で、そして学校教育という大きなシステムに沿うような特殊な形で英語に触れている/触れさせているのだという自覚を持つべきだ。その上で、可能な限り、人との出会いや経験を豊かにするものとして英語に出会うことのできるような英語教育を目指していく必要がある。
同時に、学校の英語の授業以外の「英語」があることを学習者に分かってもらう努力もすべきかもしれない。誰もが学校の英語の授業/勉強を好きになれるわけではないという現実を受け入れ、英語の授業/勉強を好きになれない生徒を「残念」とか「怠惰だ」とか「もったいない」とか言って切り捨てるのではなく、彼(女)らが英語とのより良い出会いをできることを信じ、その希望を見出す努力を、一人の英語教師としてしていく責任がある。

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