見出し画像

TOEICは消えた方がいいのか?

この記事を見たときには何も言う気にもならなかったけど、勤務校の学生の多くがTOEICを軸として英語学習に励んでいるので、学生がこういう記事に何かを思うこともあるかもしれないと思い、自分なりに考えをまとめておくべきかなと思った。

まず大前提として、私自身はTOEICのための勉強をしたのはせいぜい大学1年生の一瞬ぐらいで、TOEICに限らず英検などあらゆる検定試験に興味も熱量もない。イギリス大学院留学に必要なIELTSすら結局ほとんど勉強できずに初めて受験に行く途中の電車内でテストの形式を知ったぐらいだ。それでもTOEICのスコアアップを目標に努力する学生の気持ちを否定しないし、彼(女)たちを心から応援している。

まず(発言を断片として見れば)茂木氏の主張の中で受け入れられる(同意できる)部分は、「1点刻みでスコアリングするということに特化した、手抜きの教育をしている」という批判だ。それが学校英語・国語教育に関わる全ての教育者に当てはまるということではないが、確かにそういう授業も無いとは言えないだろう。

しかし茂木氏の主張全体に通底していると思われる価値観・言語観・人間観には全く同意しない。茂木氏に言わせれば、TOEICのために勉強しているようでは「日本人は永遠に二流以下の英語話者」であり、日本語能力試験のために勉強している日本語非母語話者は「日本の中では二流以下の日本語話者になってしまう」そうだ。

この、言語能力(外国語能力)に対して「一流」「二流」とラベルを貼ろうとする考え方は私には決して受け入れられない。公教育における言語教育に関わる全ての大人がここは強く批判しなければならないポイントではないだろうか。

昨年度までの勤務校で国際英語論の考え方を高校1年生に紹介した。その際、ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎氏の会見での英語を例に出したが、それに対して他の複数の英語の先生、そして生徒からも「ノーベル賞を取るような人だから英語が下手でも聞いてもらえる」「大谷翔平もあれだけの野球の能力があるから聞いてもらえる」といった意見をもらった。現実、そうなのかもしれない。
だが、そういう現状、つまりある文脈において他人より価値が高いとされる人間でなければ、片言の英語では母語話者に話を聞いてもらえないという現状を変えることが国際英語論研究者の方々の目指しているところの一つではないだろうか。

そして、少し冷静になって日本が多言語多文化社会であることに思いを馳せてほしい。海外にルーツを持つ家族が片言の日本語で何か助けを訴えてきたときや、ご近所さんとしてのコミュニケーションを取ろうとしてくれたとき「こんな片言の日本語話す一般人の話なんて耳を貸す価値はない」とその場を立ち去るのか。これに対する反論はビジネス界隈からいくらでも飛んできそうだが、本筋とズレていくのでそこは一旦置いておく。

茂木氏の根底にある価値観に全く同意できない以上、その上に成り立つ主張全体に対して否定的にならざるを得ないが、多少無理をすれば氏の肩を持てないでもない。テストのために英語を勉強して、目標のスコアに到達したらもうそれで英語学習をやめる、という人は少なくないだろう。やはり私もそういう英語学習を肯定的には捉えていない。

しかし、茂木氏にはある種の悲しい現実が見えていないと思う。彼は日本人を「一流」の英語話者にするために「この世からTOEICが消えたらいい」と言うが、残念ながらTOEICが消えたとしても、TOEICのために努力した/している層が「一流」の英語話者を目指して努力する可能性は極めて低い
低俗な例しか出てこず恐縮だが、この世から菅田将暉が消えても横浜流星が消えても吉沢亮が消えても阿部寛が消えても、その結果かわむらがモテモテになることはない。イケメンが滅べばイケメンに向けられている絶大なエネルギーが一般人に向けられるというのは、浅薄で楽観的すぎる期待だ。

今現在TOEICに向けられているエネルギーは、TOEICが滅んでも「一流」の英語話者を目指す学習には恐らく向けられない。向けられるとすればサークルやバイトや趣味だろう(それで良いじゃん、とも思うけど)。もちろん一部には「やっとTOEICから解放された!ガンガンTED Talk見まくろう!」となる学習者もいるかもしれない。しかし、それを遥かに上回る数の人々が英語学習から完全に離脱するだろう。

TOEICがある現状、TOEICのためだけでも英語学習に(そして幸か不幸かそれなりの量の文法学習に)取り組む機会があることで、いつか英語学習に取り組む気持ちあるいは取り組まざるを得ない状況になったときの基盤としてその学習経験が活きるはずだ。
私は「そのためにTOEIC対策でいいから英語をやっておけ!」とは絶対に言わないし思わないが、仮に茂木氏が「一流」の英語話者を増やしたいと思うのであれば、TOEIC対策が日本人英語学習者に与えてきた英語力の基盤は無視すべきではない。

というわけで、私の見ている学生たちにはTOEICへの気持があるうちはTOEICに向けて頑張ってもらえたら良いと思うし、別のところに気持が動いたらその気持ちに可能な限り素直に従って真っ直ぐ好きなことを好きなだけ学んでもらいたい。

ただ一つだけ、人の言語能力を「一流」「二流」などと勝手に品評するような態度を持つ大人にだけはならないでもらいたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?