見出し画像

英語という教科を深めたいし,広げたい

Yuan & Lee (2022). Becoming and Being a TESOL Teacher Educator.
こちらの本の読書会を始めた。


読書会について

自分のように英語教師を育てるために大学で教えている「ど真ん中」の英語教師教育者だけでなく,それぞれ様々な立場で「英語の先生の成長に寄与する(こともある)」メンバーで集まり,この本の読み解きというよりも,この本を話題の種にして,自分の考えだったり悩みだったりをみんなに共有するような時間。

今回の読書会は,一つの章について二回のセッションを持つスタイル。一度目は自分で読んできた上で考えたことや感じたこと,及び関連する自分の話,二度目は一度目で聞いた他の人の話も踏まえて改めて気になった箇所や読み方が変わった箇所などを共有する。
というテイだが,「みんな忙しいしゆったりやろうよ」ぐらいの気持ち。

この読書会では自分の教師教育観をかなり曝け出すことになるので,その全てをここに書くことは難しいが,(できるだけ書籍の内容との関連の強いところで,)読書会を通して改めて考えたことの一部を記録として残しておこうと思う。

英語をより深く

今回は第一章の一回目。
今年の三月にRespondentsの一人として登壇(?)させてもらったForum on Language Learning Motivation内のトークで聞いた発表の論文バージョン。
なお,この本に出会ったのもこのトークのおかげである。

第一章はアルゼンチンのある高等教育期間で英語教員養成をしている13名の英語教師教育者の英語教師教育に対するモチベーションの変化を6年間に渡って追った研究である。
この中で,英語教師教育者になることを動機づける要素の一つとして"subject matter of English"というのが挙げられている。
初等・中等教育で英語を教えるよりも,もっと深く高度な英語の教授・学習に携わりたいという気持ちが,初等・中等教育機関の英語教師から高等教育機関の英語教師教育者になるという決断を促すこともあるということだ。

これにあたるモチベーションは,私にとっては"Becoming"のタイミング,つまり「英語教師教育者になろう」と考えている時にはあまりなかったような気もするが,「英語教師教育者である」今(Being)は英語科教育法の授業やその他の読書会等で中高時代の英文法指導を批判的に捉え直し,より英文法の奥深いところまで立ち入ることの面白さを強く感じている。

2年生の英語科教育法Iでは,英語授業内で行う活動を考案し実施するというのが最終課題である。第14週目の授業ではそれぞれの学生が対象学年等を自分で定めて,活動案を考え(始め)た。
その中の一人が文法学習に焦点を当てた活動を考えていた。彼女の最初に考えていた活動は,複数の例文の中で文法的誤りのある文を探し出すというもの。(実際はそこにゲーム性を取り入れて,「楽しい文法学習」を目指していた)
彼女が作ろうとしていた誤りの例文は,「完了形だけど過去分詞になってない」とか「仮定法なのに時制がスライドされてない」とか,そういう類のものだった。私は彼女と話す中で,「文法の3側面」を思い出してもらった。(あまり覚えてなかったけど)
文法は「形式」「意味」「機能」に分けられる。彼女が「文法的誤り」としていたのは全て「形式」面での誤りである。でも,例えば仮定法なら「これ仮定法で言ってるけど,非現実的な内容とは言えなくない?」とか,現在完了なら「これ単に過去の出来事言ってるだけで,現在との関わりないよね」みたいなことまで「誤り」として扱うことで,「意味」や「機能」の側面に触れることができ,単に「書き間違えてる」例文を探す活動よりずっと楽しく有意義になるのではないか。そのためには,例文も(大文字の一単語目から始まって,ピリオドまでの一つの文という意味の)単文ではなくて,文脈が分かるようなちょっとした文章にしなければいけないかも。
というような話をその学生とした。

その会話を通して,「意味」や「機能」に目を向けることで英文法指導の可能性が大きく広がることを彼女はある程度実感してくれたと思う。そこから先は考える例文の方向性が大きく変わった。中学・高校でも英文法の「意味」や「機能」をもっと扱うべきだと思うので,これを「大学ならではの学び」とは絶対に言わないが,少なくともその学生にとっては中高生時代よりも「英文法」というものの捉えが深くなった時間だったと思う。
(仮定法や完了形を使うことを選択した話者の感覚を「誤り」とする難しさは結構あると思うのだが,そこまで踏み込むとやり過ぎな気がしたので自制)

英語をより広く

私が英語教師教育者になったモチベーションの中で,「英語」という教科に関するものが何かあったかと考えてみると,私は「英語という教科をもっと広げたい」と思っていることに改めて気づいた。
つまり,「英語の学びって,もっと色々な方向があるよね」と次の世代の英語の先生たちに伝えていきたいと思っている。

「英語力」なるものを「聞く」「話す(発表)」「話す(やり取り)」「読む」「書く」の「4技能5領域」に分けようとすること,そして「やり取りとはこういうものだ!」と定義しようとすることが,「英語を使ってできるようになったら嬉しいこと」の域を狭めているように見える。
というか,「できるようになったら嬉しい」とかじゃなく「できるようになるべき」という感覚でやっている。「できなかった世代のルサンチマン」と「できなかった世代が勝手に妄想する世界で活躍する人材になること」を児童・生徒・学生たちは押し付けられている。
もちろん日本で暮らす人が日本語以外の言語を扱えるようになることの社会的な意義を否定する気はない。特に日本で暮らす日本語を母語としない人々のためにも,外国語教育が背負う社会的責任は大きいと思っている。
しかしその一方で,外国語学習にはもっと色々な「楽しみ」があることにも気づいてほしい。(外国語を扱えることの社会的意義と楽しさは,もちろん両立し得る)

大学での私の英語技能科目の授業では洋楽を毎回歌う。今期の学生たちは30回(週2コマ×15週)の授業で9曲の洋楽を歌えるようになった(ことになっている)。休み時間に曲をかけておくと自然とみんな歌い出して「もう歌えちゃうね〜」「聞き取れすぎて作業用BGMにならなくなった!」なんて笑ったり,「授業でやった曲カラオケで歌ってきました!」とか「お父さんが家でShape of Youかけてたから歌った〜」とかの報告を受けたりする。

「歌うのは結構だけど,それで何か英語力はついてるの?」
と私には直接言って来ないが,私のいないところで言っている人もいるらしい。(こういうのを直接言ってもらえないって,ベテランになる弊害だとか思ってたけど,超絶若手でも,感じが悪いとこうなるらしい)

歌うことで英語力がついているか否かの議論はここではしない。

そんなことより,「英語で歌えるようになる」ということの価値を,何故そのまま受け止めてくれないのだろう。「外国語に触れて,外国語でできるようになったことが増えて,しかも幸せそうじゃん」と思ってもらえないのは何故だろう。

読書会で,ある先生は「英語で雑談できる」ということの価値を認めない人達からの批判を受けた過去を話してくださった。もしかしたらその「雑談」は指導要領の定める「やり取り」の要件を満たしていなかったのかもしれない。もしかしたら批判していた先生方は「雑談」に親でも殺されたのかもしれない。
でも,学習者が英語でできるようになって嬉しいことって,「4技能5領域」以外にも沢山あるはずで,外国語学習の楽しさが指導要領やCEFRで言われていないことの中にもあるはずだ。
(そしてもちろん我々が歌や雑談しか授業でやってないなんてことはない)

誰かが決めた「英語力」の範囲に閉じ込められないで,もっと英語(の学び)というものを広く見たって良いと思うんだけど,という気持ちを英語の先生たちと共有したいというのが,私の英語教師教育者としてのモチベーションの一つだ。
(ちゃんと指導要領の内容を踏まえた英語科教育法やってますよ)

最近ようやく英語の学びが楽しくなった

実は私はあまり英語学習が好きではなかった。
楽しいと思うことももちろんあったけど,「英文法の歴史を知ったところでそれは英語力ではないし,英語学習が楽しいわけじゃない」とか思っていた。
英語教師としては「英語の授業を通して人のことを知れるのは楽しいけど,英語の授業で大事なのは知る過程で使う英語であって,知る喜びじゃない。生徒たちもそんなこと求めていないかもしれない」という思いも,指導要領を勉強したり,生徒たちの模試だ英検だで悩んだりする度に味わってきた。

しかし,上で書いてきたようなことを実践の中でぐるぐる考えながら,段々自分の中で思いとして整理されてきたことで,「歌も英語学習だし,英文法も英語学習だし,楽しい側面もあるじゃん」と思えるようになった。つまり,これまで楽しめていなかった「話すこと」とか「書くこと」とかが楽しくなってきたわけでは(まだ)なくて,楽しいと思えることに対して「これも英語学習」と認められるようになった。
また,教育実習生の授業へのコメントでも「最後の活動,英語のトレーニングとしてみんなやってたけど,あの子だけはコミュニケーションとして楽しんでたよ」と伝えて,それが実習生(と,その指導担当の先生)にちゃんと響いた。
「できるようになるべきと言われていることをできるようになる」以外の楽しみもあるし,それだって「英語学習の楽しみ」だと考えていいはずだ。

少し前までは「英語学習が(得意不得意は関係なく)好きじゃない子に寄り添える教師」というアイデンティティを大事にしていたのが,最近は「一人一人にとっての楽しい英語学習を見つけるきっかけになれる教師」というアイデンティティになってきた気がする。

こうやって,日々の実践や学習と絡み合いながら,少しずつ少しずつ,でも気づいた時には結構ダイナミックに,教育観や教師観が変わっていくのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?