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産出的活動の模擬授業の在り方

英語科教育法IIIの振り返り,だいぶ溜めてしまったのだが,そのおかげで「書くこと」「話すこと(やり取り)」「話すこと(発表)」の模擬授業の3つを並べて振り返ることができることに気づいた。
そもそも現状の5領域の分け方には納得していないが,便宜的に技能別に焦点を分けて学生に模擬授業を行ってもらっている。(各領域「講義」「(講義の続きと)模擬授業構想」「模擬授業&対話検」の3コマ1セット)

産出的技能に焦点を当てた模擬授業について,授業者役の学生が三者三様の振る舞いを見せた。今回はその三つの模擬授業から,産出的技能に焦点を当てた模擬授業の在り方について考えたい。「授業」ではなく「模擬授業」である。

模擬授業で何をしたか

「書くこと」の模擬授業

「書くこと」の授業のメインの活動は,まさに「書くこと」そのものであった。警察犬として採用されたトイプードルの話を本文で読んだ後という状況設定で,「自分が警察犬に推薦したいと思う犬」についてライティングするというもの。
書く前にはブレストの時間が取られた。授業者はそのブレストの時間で生徒同士が活発に意見交換をしてそれぞれのアイデアを膨らませることを期待していたが,そのような意見交換はほとんど行われなかった。ただ,授業者としてはそれも「自身の力で考えることができている」とポジティブに捉えていた。個々にブレストをして,ライティングに取り掛かる。この際,授業者が生徒に声をかけることはほとんどなかった。「自身で書けるところまで頑張ってほしいと考えていたのであまり声をかけない」と授業前から想定していたようで,「今回教卓からでも生徒の手が動いていた(のが見えた)ことからも私は動かないと判断した」(括弧内引用者)と振り返っている。

言ってしまえば,この模擬授業では「ライティングの指導」と呼べるものはほとんど行われていない。(前時の復習が終わり)ライティング活動に入った後の授業者の関与といえば,ブレストの段階でいくつかアイデアの例を示したり,手が止まった生徒に少し声をかけるぐらいだった。
実際の教室であれば生徒の実力を試すために,あえてこういうやり方をすることもあり得るかもしれない。また,産出的技能は教師がいくら説明したり例を見せたりしても,学習者が実際にやってみないことには身につかない。だから,「実際に書いてみる」という授業にした気持ちは分かる。
ここには「教師としての力をつけるための模擬授業でその選択は妥当なのか」という学生の判断の問題と,「実際にやってみるというフェーズで教師には何ができるのか,を十分に考えさせられていなかった」という私の教師教育者としての力量不足の問題があったように思う。

「話すこと(やり取り)」の模擬授業

「やり取り」の模擬授業でも生徒同士の英語での会話が主要な活動として行われた。しかし,「書くこと」の授業との最大の違いはそのメインの活動の前にあった。教科書に載っている会話の「意味理解」をした上で,それをモデル文として自分の内容に置き換えた英文を「書く」活動をした。そして,その書いたものをもとに「やり取り」をした。「書いてから,話す」という活動の順番の是非についての議論にはここでは踏み込まない。
加えて彼女はやり取りをしている生徒たちを見て周り,やり取りが止まっているペアに声をかけたり質問をしたりして,コミュニケーションを促した。
ここで重要なのは,授業の中で「英語でやり取りができた」という実感が得られるための手立てを彼女なりに考えてそれを実行したことである。即興的な動きも多く,その一つ一つについては省察の余地が多くあった。
この「省察の余地がある」というのが模擬授業としての価値の高さを示すものの一つではないだろうか。

「話すこと(発表)」の模擬授業

「話すこと(発表)」の模擬授業では,上の二つと異なり,生徒が授業内で実際に発表をするわけではなかった(ウォームアップとしてのちょっとした話す活動はあったが)。発表の活動に向けて,授業者がルーブリックを生徒に示し教師自身が「良いプレゼン」「悪いプレゼン」を見せて生徒にルーブリックに沿って評価させるというのがこの授業のメインの活動であった。この活動の狙いは,「どのような発表がこの単元では求められているのか」を生徒が評価者側に回ることで具体的に理解することだ。
ルーブリックを用いた評価が好まれる場面は発表に限ったことではないのだが,やはり実際のところパフォーマンステストとして最も行われやすいのが発表であろうということで,私の講義パートでは発表の指導についてだけでなく,ルーブリックを用いた評価について深めた。
学生はそれを受けて,今回の模擬授業で取り掛かる発表のルーブリックを考え,それを実際に生徒に評価者として使わせるというオリジナルのアイデアを加えて,授業の根幹に据えたのだ。

上の二つの模擬授業が授業内で実際に書いてみる・やり取りしてみることによってその技能自体を高めるプロセスを経験(させようと)しているのに対し,この発表の授業では「良い発表とは何か」「発表の技能が高まるとは,具体的に何ができるようになることか」について生徒に考えさせるという形をとっている。

目指すべき姿を示すというチャレンジ

生徒に目指すべき姿を具体的に示すことができるのは産出的活動の強みだ。

もちろん「読むこと」「聞くこと」も優れた英語使用者はどのように読んでいるのか・聞いているのか,そのためにどのようなトレーニングが必要かを教師が言語化し,生徒に腹落ちさせることができるのが望ましい。だが,読んだり聞いたりしているプロセスはその人の中で実際に何が起きているのか外から観察することができない。それゆえ,自分のパフォーマンスの高まりを自分で認識していくことが求められる。「先生が言ってたのはこういうことか。できるようになったかもしれない」というふうに。
それに対して何かしらの「成果(物)」が生まれる産出的活動であれば,直接的にモデルを示したり,求めるパフォーマンスの内容を言葉で説明し,実際のパフォーマンスと照らし合わせることができる。そういう意味で,ルーブリックを示して目標を理解させるというのは,産出的技能の授業と相性が良さそうだ。

(※私はルーブリックが万能だと思っているわけでもないし,教師の求めるパフォーマンスができるようになることだけを「成長」と捉えることにはかなり批判的だ。)

そして何より今回学生が「良いプレゼン」「悪いプレゼン」を行ってみたように,教師がモデルを示す(実際にやってみる and/or ルーブリックを作って見せる)ことは,教師として成長するための模擬授業の価値を高めるものであるように思う。
模擬授業後の検討会では授業者の披露したプレゼンの質への指摘もあり,授業者自身も悔しい思いをした。「省察の余地がある」以外に「悔しい思いをする」も模擬授業における大切な価値だと私は思う。

模擬授業で繋がる

この記事で取り上げてきた三つの模擬授業は,
・課題を与えてパフォーマンスさせてみる (書く)
・パフォーマンスを高めるための足場かけをする (やり取り)
・求められるパフォーマンスの水準を共有する (発表)
と,それぞれ異なる授業内容である。

使用技能の違いを一旦無視すれば,この3種類の授業を下から順に行うと,実際の授業における標準的な指導順になるのではないだろうか。

① 求められるパフォーマンスの水準を共有する
② パフォーマンスを高めるための足場かけをする
③ 課題を与えてパフォーマンスさせてみる

翻って言うと,学生らは産出的活動に焦点を当てた授業の肝を1段階ずつ前に戻りながら模擬授業を行ったと言える。

決して明確な証拠があるわけではないが,書くことの授業を通して「いきなり書いてみるんじゃなくて,書く練習や指導が欲しい」という意識が持たれ,やり取りの授業を通して「どういうパフォーマンスを目指せばいいか」をもっと明確にしたいという意識が持たれた可能性がある。
その意識を持ったのは模擬授業者の学生だけでなく,その前の講義パートを担当した私も含まれるだろう。むしろ,一つ前の模擬授業を観てその前段階の不足を感じた私が次の講義でそこを重点的に扱い,それが模擬授業の中身を規定したのかもしれない。
(講義パートを組み立てる時,その前の模擬授業を意識したつもりはないので,単なる偶然である可能性も否定できないが)

ともあれ,私としては各技能ごとに「講義」「授業構想」「模擬授業」の3回の授業で1セットという意識で15回の授業をやってきたつもりだったが,こうして振り返ると,学生の模擬授業を軸としてセットとセットが緩やかに繋がっていることが分かった。
この気づきが来年度(あるいは来期)以降の私の授業構想にどう影響するか,私自身楽しみだ。

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