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『英文法を哲学する』

佐藤良明(2022)『英文法を哲学する』を拝読した。

今年読んだ英語関連本の中でもすこぶる面白かったので,もうすぐ出版から1年ほど経つようなタイミングではあるが簡単にまとめておきたい。
出来るだけ多くの英語教員に読んでもらいたい本なので,ギリギリ冬休みに間に合うように。

本書の基本スタンス-英語に乗る

本書全体を通して佐藤は英語を日本語の枠組みから捉えることに否定的で,英語という言語に出会い,英語という言語のことを知り,英語という言語の世界に自らを解放することを求める。
と言っても抽象的過ぎるので,そのスタンスを象徴している第1章3節「英語の記述は命題に収まろうとする」を簡単に取り上げる。

佐藤は「直説法」のことを「事実をストレートに述べるときの心のモード」と簡潔に定義づけた上で,英語の文は基本的に直説法で,つまり論理学で言う「命題」と同じように書かれたり話されたりするのに対し,日本語は学術論文や公的文書でこそそのようなモードを用いることがあるが,日常会話で直説法が用いられることは極めて稀であることを単純明快に気づかせてくれる。
そして英語の直説法が「事実を並べて叙述する」という機能を果たしていることが,英語のストレートさや語順の問題と関連づけて説明される。

と,これぐらい短く説明してしまうと「日本語の会話だって直説法はたくさんあるだろう」「英語だって仮定法を使うだろう」「そもそも法とかモードってなんだ?」などなど色々な反論・疑問が浮かぶだろう。そういう方には是非,本書を手に取ってみてほしい。それなりに納得できるはずだ。

C(補語)の品詞化-名詞,様態詞,空間詞

本書を読み通した上で,個人的に一番好きだったのは第3章3節の「文は補語だけで自立する」である。

「英語の文には主語・動詞が必要」と耳にタコができるほど聞かされ,口を酸っぱくして言ってきた私は,節題を見た時に「なんか変な例を持ち出して無理やり説明をこじつけるつもりか?」なんて思ってしまったのだが,年の瀬も年の瀬に,大反省案件である。英語の文はSVCのC(補語)だけで確かに成立する。佐藤の挙げている最もシンプルな例は,"Good."「おいしい」だ。

補語は学習者に理解してもらうのに極めて苦労する文法項目の一つだろう。"I'm here."のhereは「副詞」だから文の要素にはならない,つまりI'm here.はSV(または7文型で考えるならSVA)とするのか,それとも(be動詞は第2文型動詞であるという原則を崩さないためにも)"here"を補語としてSVCの文と解釈するのか,英語教師でも迷うところだ。(というか,実際にここに「正しさ」などないのだから,これを迷えるぐらい英文法に対する知識・見識が先生にあると嬉しいと個人的には思う)

佐藤はそういう混乱をクリアにする一つの提案をしている。
それは,従来の形容詞・副詞の区別を補語に対して当てはめないことだ。
つまり,I'm here.のhereが形容詞か副詞かを考えず,I'm (I am)だけでは座りの悪いところに補うものとして広く捉える。
そこで補語を分類するのであれば「名詞」「様態詞」「空間詞」に分けられるとする。
ここでは説明の簡略化のために佐藤の例文をさらに単純化するが,
It's a boy.のa boyは名詞,It's big.のbigは様態詞,It's here.のhereは空間詞である。
この分類は,Hold me tight.のような文の説明も楽にする。Hold me tight.を「私を強く抱きしめて」と理解すれば,tightではなく副詞のtightlyであるべきではないかと考えられるし,実際「形容詞」であるはずのtightは修飾する先の名詞を持たず行き場を失ってしまう。
しかし,そもそも単語は元々品詞を十字架として背負って生まれてくるわけではなく,文の中で他の語との関係の中で自らのアイデンティティとして品詞を持つものだ。(I could sleep well.とI had a good sleep.のsleepは文の中で異なる品詞を持っている)
それでは,英語の文の中で修飾語として働く単語は全て形容詞か副詞かどちらかのアイデンティティを持つ必要があるのかと考えてみると,少なくとも学習者として英語の仕組みをわかりやすく理解したい/させたい我々としては,形容詞・副詞の区別がその役に立たない場合は,どちらのアイデンティティも持たせる必要はない。
Hold me tight.のtightは形容詞でも副詞でもなく,あえて分類するなら様態詞であり,補語なのである。

英語の発想には,発想の根本から[SVO]の形をしている系統と,「C」のみで発想し,あとから,都合に応じてSを付けて,形式動詞のis等で結ぶものがある。

p. 112

上の引用の考え方は少なくとも私にとっては非常に新鮮で,面白く,そしてこれまで以上に英文法の理解を深めてくれた。
引用しておいてなんだが,ここだけを読んでもピンと来ない人も多いだろう。是非,本書を手に取ってもらいたい(2回目)。

英文法の捉え方は一つじゃない。でも,だからこそ,辛い。

「補語なのか,付加詞なのか」は,私たちスピーカーが決めること。

p. 145

上の引用は本書を通読する中で最も印象的なフレーズの一つである。言葉は文法規則に則って使われるのではなく,心・思考に基づいて発せられ,そこに規則性が現れる。その当たり前を多くの英文法解説書は忘れている,あるいは理解していないように思われる。
それに対し,本書は一貫して英語話者の考え方・言葉の発し方に注目し,それをこれまでの歴史の中で積み上げられてきた英文法規則に関する知識と結び付けている。

佐藤と全く同じ英文法解釈をしろという意味ではなく,言葉を用いる人の思考・感情と,発せられる言葉そのものやその構造を関連づけるある種当たり前の感覚を全ての英語教師(予備校講師も含む)が持てたらどうだろう。全ての英文法解説書がそういう考え方に基づいて編集されたらどうだろう。
英文法の授業や学習が大きく変わるかもしれないと一瞬夢想してしまう。

しかし,現実はそう甘くなく,おそらく今後も英文法書のほとんどは5文型wベースにするし,日本語の「連用修飾語」「連体修飾語」の感覚で「形容詞」「副詞」を常に分けたがるだろう。生徒らが触れる英文法の解説の多くも,それが本であれ塾であれYouTubeであれ,大方はそういう類のものだろう。英文法の捉え方は一つではないから,伝統的な文法理解・文法説明があること自体は否定しないが,あまりにもその類のものが世の中に溢れすぎているために,仮に一人の英語教師が本書をベースにした文法理解をしたとしても,その文法観に基づいて教室で文法指導をできるか/するべきかと言うと,そう簡単には首を縦に振れない自分がいる。多くの生徒の間に「なんか先生が言ってること,塾と違くない?」という混乱を生む可能性の方が,「先生わかりやすい!英文法楽しい!」となる可能性よりずっと高いだろう,悲しいことに。

また,仮にある先生がこれまで一方向的に文法参考書をベースにして文法指導をしてきていたとしたら,その文法指導のベースを本書の文法観に置き換えたところで,恐らくその指導自体がうまくいかないだろう。
なぜなら,繰り返しになるが,本書は英語を使用する話者の思考に寄り添って英文法を捉えており,実際に英語使用経験を豊富に持ち,それをメタに振り返ることによってようやく腹落ちするような文法観だからだ。
机上で文法書を隅々まで理解して「5文系,神!」と騒いでいた川村少年と同じような学び方では佐藤の文法観の旨味は何も味わえないはずだ。

それでもまずは英語教師に届いてほしい!

上のような課題はあるにせよ,それでも私はまずこの本を多くの英語教師に読んでほしい。そう思って久しぶりに本のレビューを投稿している。
既存の学校英文法の当たり前を疑うことで,仮に教師にはクリアに整理されているように見えているとしても,伝統的な学校文法の中にはいろいろな矛盾があり,それが生徒の躓きを生む可能性に気づいてほしい。英文法が理解できず混乱する生徒を,その生徒の理解力の問題で片付けないでほしい。いかに文法というのが曖昧で,探究の余地があるものかを体感してほしい。

ただ,本書をまず理解できるだけの英文法知識を英語教師志望の学生たちが持てているか,正直私の見ている範囲ではそこまで安心はできないのが実感だ。教職課程の学生専用に「英語学入門」みたいな授業を開講したい気持ちが本書でより強まった。

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