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災害支援に参加したら、涙腺がゆるくなった話

生まれてはじめて、災害支援に参加した。

感情が大きく動いた出来事があったので、この記憶が薄れる前に文章に残しておこうと思う。ぼくは普段あまり感情の起伏がないのだけど、この数日間で3回泣いた。

今回ぼくが行ったのは、石川県の能登半島。
元日に最大震度7の大地震が起こったとき、ぼくはバリ島にいた。

物理的な距離もあってか、実感はほとんどなかった。
北陸に家族や親戚がいるわけでもなければ、石川に行ったこともなかったというのが大きいと思う。

ニュースで被害状況を見たときも、ぼくにとっては現実味がなく「大変そうだなぁ」くらいの、他人ごとの感情しかなかった。

それから2ヶ月と少しが経った3月上旬、友人が災害支援のボランティアを募っているのを見かけ、すぐに参加の意思表明をした。

このときなんで参加しようと思ったのかは、まだ自分の中で明確になっていないし、別にはっきりさせる必要もないと思う。

その日のうちに予定を組み、10日ほど前に日本に帰ってきた。
別の予定もあり、能登を訪れたのは3/20から3/22の3日間。

そのうちボランティアに参加したのは1日だけだったけど、自分を見つめ直すのには十分な時間だった。

ボランティアでぼくがやったことは、震災の影響で使い物にならなくなったブロック塀の撤去作業。
行った場所は輪島市の門前町で、ここを訪れて初めて、ぼくのなかで震災が現実になった

そこかしこに、倒壊した家の数々。いろんな感情がごっちゃになり、気付いたら涙が出ていた。

映像で見るのとは比べ物にならないほどの情報量が一気に入ってきて、それが溢れ出たんだと思う。この一瞬のためだけでも、被災地まで訪れた意味はあった。
きっと、ぼくがこうやって文章にしたところで、ほんの少ししか伝わらないんだろうな。

翌朝には活動拠点を出て、その足で金沢へ向かった。
ブロック塀を壊すような直接的な支援もあれば、地域経済をまわす間接的な支援もある。

という名目で、地酒やおいしい食べ物を満喫。1泊2日で10件以上のお店に行った。

そして最後に入った場末のバー。ふらっと入ったお店のマスターに、ぼくたちの関係性を聞かれ、ボランティアのために来ていることを伝えた。

それを聞いたマスターから、お礼の言葉とともに、親戚が亡くなった話を聞いた。災害地への解像度がさらに上がり、ここで2度目の涙。これを書いている10時間くらい前の出来事で、いまは空港で目をうるませている。

短期間でこんなにいろんな感情が湧いた経験は、これまでなかったと思う。

本当はもっと詳細に伝えようと思い書き始めたけど、涙腺がもちそうにないので、今回はこのあたりで。

最後に、今回ボランティアを受け入れてくださった災害NGO結の皆さま、スケジュール等の細かい調整をしてくださったタビイクの皆さま、そして今回お会いしたすべての方に、感謝の言葉を述べて締めようと思います。

本当にありがとうございました!また来ます!

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