デザイン界の100m走10秒
今日も今日とて本を読んだ。水野学さんの著書「センスは知識からはじまる」という本だ。
ここに書かれていたのは一貫してタイトルの通りだ。クリエイティブデザイナーとして活動する著者・水野学さんは、センスについて多くの人が勘違いしているという。センスは生まれつきのものだと。
これを全くの勘違いだと強く主張している。センスは知識の集合体である。つまり、どれだけの知識があるか、いかに日頃から知識を入れる努力をしているか否かがセンスであると。
多くの人が、各業界の一線で活躍している人に対して、才能や運やセンスという言葉を使う。そうすれば、「自分の努力が足りない」ということを認めなくて済むからだ。才能や運やセンスという一種の自分の力ではどうしようもないものに全ての言い訳を詰め込む。そうすることで自分がそこに届かないことに対して「仕方ない」と思うことができる。
しかし、そんな才能や運やセンスなんていうものが持っている力というのはほんのごく一部だ。
水野学さんは本書で「センスとは知識の集積である」と述べている。裏を返せば、センスがないのはただ知識がないだけ。
知識というのは、本屋に行ったり、自分の足を使って自分から取りに行かなければいけないもの。つまり、努力が必要。
それも、プロとして活躍していきたいのであれば、圧倒的な知識量が必要。要するに、センスがないと叫んでいる人はただ知識を仕入れる努力を怠っているのだということだろう。
クリエイティブの世界の一線で活躍する水野さんが言っている。
間違いなさそうだ。
悲しいが、これが現実である。
これを受け入れるのはなかなか厳しいことかもしれない。ただ、これを受け入れることからすべては始まる。逆に、これを受け入れなければ一生なにかに辿り着くことはできないだろう。
デザインという非言語で、言葉では説明しづらい世界が故に、これが勘違いされてしまっているのだろう。
100mを10秒代で走ることが簡単にできないのは、知識のない素人にも誰にでもわかる。しかし、人を唸らせたり、売れるデザインを簡単に作ることができないというのは分かりづらいのだ。
知識がなければないほど、勘違いしてしまう。自分の知識がない世界に足を踏み入れようとするときは気をつけなければならないなと思った。
この本で印象に残っているのは、デザインも必ず言語化や説明ができる。ということだ。
非言語で感覚で作られているように見えて、なぜこのようなデザインになったのか、なぜこの書体なのか。一つ一つ細かいところまでデザインの意図を説明できるという。
デザイナーがそれを説明できないのであれば、少し疑った方が良いらしい。
デザインというのはそのくらい緻密な計算の上に成り立っているものだった。
そして、僕らが普段言葉では表せない感想を表現するときに使う「すごい」や「すばらしい」などの抽象的な言葉も、実は深掘りして言語化できるという。ただ、そこには質の高い深い知識がなければできないとのこと。
サッカーにもすごく似ているなと思った。
試合中というのは刻一刻と状況が変わる。サッカーという競技はとにかく時間がないスポーツだ。だから考えずに動けるようになるまですべての技術を落とし込まなければ試合では使えない。
それゆえに、考えずにプレーしている、感覚で、センスでっていう言葉が先走ることが多々ある。ただ、そうではない。
その都度、言語化している時間はないが、後からゆっくり時間をとれば、なぜそこに動くのかそのプレーをしたのかを説明することは容易だ。これを瞬間瞬間の短い時間に行っている。
「なんとなく」とか「運がよかった」とか、いわゆるその裏側には計算がないと捉えられる言葉を用いてインタビューに答えるアスリートや成功者がいるが、この言葉をその通りに受け取ってはいけない。彼らの中にはほとんどの場合、この裏側にロジックが眠っている。
インタビューの時間の都合上、一から語ることができないから、それっぽい言葉を使っているだけなのだ。
もっともっと知識を仕入れて、日常の言語化できない世界の裏に隠れている計算式を見つけていかないといけない。
まだまだ圧倒的に知識が足りない。
センスがないのは、自分のせいだ。
自分の知識が足りないせいだ。
そう言い聞かせて、これからも地道な努力を続けていこうと思った。
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