ドイツで育つヤツら
僕はドイツの田舎にある児童養護施設で働いている。
そこには何らかの理由で親と一緒に住めなくなった子どもが暮らしていて、僕ら大人が365日24時間代わりがわりで面倒を見る。家庭内で親に特別仕事という仕事が割り当てられていないように、僕らも仕事内容はこれといって決められたものはない。誰かが食事を作り、気づいた人が洗濯を畳み、子どもの学校や習い事の送り迎えをし、お風呂に入れて寝かせる。本当に親代わりのような存在だ。
ここで働き始めて半年が経ち、職場での子どもしかり、友達の子どもしかり、子どもの友達しかり、いろんな環境の子どもに触れる機会が、自分の生活に占める子どもの割合が増えた。とにかく増えた。
それが僕に新しい刺激を与えてくれ、僕の思考を促してくれた。
N(サンプル数)は少ないが、僕がこれまでドイツで育つ子どもと触れ合う中で感じるのは、彼らの口ごたえの凄さだ。ドイツ語ではこれをdiskutieren(ディスクティーレン)、英語で言うところのディスカッションという意味を含んだ言葉で表すのだが、こういうときは「議論」とか「討論」とかよりも「口ごたえ」というニュアンスを含む。
とにかく何をするにも、大人のいうことには必ず反抗の意思を示す。それも感情を伴った全力で。僕が日本で生きてきた環境ではこうしたものをなかなか見ることができなかった。口ごたえをしたとしても、それは一過性のものであるし、納得しなかったとしても心に仕舞い我慢するのが日本人だろう。
ドイツの子どもは違う。2歳だろうと15歳になろうと、彼らは口ごたえをなかなかやめない。
ここになかなかの衝撃があった。なぜなら、彼らが口ごたえした結果、彼らの言うとおりになったことをほとんど見たことがないからだ。そもそも、口論、口ごたえになる時点で大人を納得させることはできない。大人が納得していたり、許可していることなら大人は何も言わないからだ。
日本で僕はかなりこのドイツ人の子どもに近い特性を持った人種だったが、何度か口ごたえしてみると、それが無意味であり、無駄なエネルギーを使っていることを学び、諦める、または違う方法を取るようになった。たぶん日本の多くの子どもがそうだ。
しかし、ドイツの子どもは諦めない。
その理由はどこにあるのだろうか。
一つには、ドイツの教育ではディベートや討論の時間が授業として長い間設けられていることにあるだろう。僕が仕事の研修セミナーに行ったときも、ほとんどがグループディスカッションで、ビデオを見てそれについて話し合うなど話し合いがメインで進められるセッションが8割だった。
ヒトラーの歴史的背景からドイツは民主主義の維持にかなり敏感になっている国だと言えるとは思うのだが、僕はそれ以外に一つの理由を考察した。
それは、「子どもにお金がかからない」ということである。
ドイツでは基本的に大学まで学費が無料なのに加えて、子どもが18歳になるまで子ども1人あたり毎月4万円近くを親は貰うことができる。
これが何を意味するのか。
ドイツで育つ子どもは金銭的負担を親に強いていない為、親(大人)に対して下手に出なくていいのだ。
日本だと、子どもを社会に送り出すまでに一般的に700万円〜2000万円の教育費がかかるなどと言われている。それはつまり、子どもが親にとって金銭的負担になっていることを意味し、親が金銭的困窮に陥った場合、子どもの困窮に直結する。
僕も子どもの頃、子どもながらに親の負担になっていることを危惧しながら生活していた。コトの深刻さはわからないし、本当に自分が負担になっているのかなど知る由もなかったが、大きくなるにつれ、どこか自分の負担は薄々感じるようになり、「学校に行かせてくれてありがとう」「ご飯を作ってくれてありがとう」などと親に嫌われでもしたら生きていけなくなることをどこかで理解していたと思う。
学校へ行けることやご飯が食べられることに感謝するのが悪いことだと言っているのではもちろんない。ただ、日本ではドイツに比べて社会的事情から、子どもが親に反抗しづらい構造が生み出されている傾向にあると言えるだろう。日本の学校教育も、和を乱さない生徒を大量生産するカリキュラムになっている。
こうした社会の根本的な違いが、もしかするとここまで子どもに大きな影響を与えているのかもしれない。あくまで僕なりの浅はかな考察の範疇を出ることはないのだが。
口ごたえするドイツの子らが良いと言っているのではない。今回の記事は、口ごたえするドイツで育つヤツらを見て、もしかしたらその裏にはそんな背景があるのかもしれないと思っただけだ。
なかなかおもろいじゃないか。