似非独人
ドイツ語で映画『きみに読む物語』を見た。なかなかによかった。
視聴後に気になったのはやはり映画のタイトル。
原題は『The Notebook』で、ドイツ語タイトルだと『Wie ein einziger Tag』となっている。einzigというのはドイツ語で「唯一の」とか「たぐいまれな」という意味で、独題を日本語に訳すなら「特別な1日のように」などとなるのだろうか。
原題『The Notebook』に対して、『きみに読む物語』という題を作った天才に、日本語の素晴らしさを教わるとともに、半分嫉妬した。
きっとこれが違うタイトルであったならば、僕はきっとここまでこの映画を見て感銘を受けていないとすら思う。それくらい秀逸で脱帽したいタイトルだ。
また、今回の映画を楽しめた要因の一つに、ドイツ語で視聴できるようになったというのはあるだろう。
もちろん、英語のオリジナルで視聴できるに越したことはないのだが、日本語の吹き替えや字幕で見るのに比べれば、オリジナルに近い感性やニュアンスで映画を受け取ることができる。英語とドイツ語の方が英語と日本語よりも言語的に近いからだ。
最近、日本語の映画コンテンツにドイツ語字幕を付けて見てみたのだが、これはひどい。なぜなら、ドイツ人は普段そんなこと言わないだろ!というドイツばかりが羅列されるからだ。
ドイツ人が見る分には、意味は伝わるし、日本の文化を学べるという面白さはあるだろう。しかし、語学学習者からすると、僕は日本語コンテンツをドイツ語字幕で勉強することはあまり良くないと感じた。
きっと今の僕はそんなコンテンツのようで、日本人のマインドを持ちながらドイツ語を話す似非ドイツ人、言うなれば「ヤパーナー(ドイツ語で「日本人」という意)」なのだろうなと。これだから意味は通じるし会話はできるが、ドイツ人の文脈の中でコミュニケーションをとることができない。最近僕が感じていた課題とピッタリ当てはまる。
ある程度ドイツ語が上達してきて、それなりにコミュニケーションをとれるようになり、僕の人間性や本質的なところの課題が浮き彫りになってきて、日々僕という人間に絶望している。
僕は僕にしかなれないし、どこまでいっても僕はヤパーナーから逃れられないと思うと、何か複雑な気持ちになったりする。もちろんそれがアイデンティティでもあるのだが、本当の意味でそのレベルに達するのはきっともう少し時間がかかるだろう。
ドイツ語を話せるようになると、性格変わるよなどと教わっていたし、そうなりたいと思って日本語をできるだけ介さずにドイツ語を習得してきたつもりだったが、潜在意識の奥底に長い年月をかけて刻み込まれた日本人マインドはドイツ語を話す自分にも大きく影響を及ぼしてくる。厄介だ。
これではドイツにいても日本にいるようだ。だから日本を恋しくなることもなければ、ドイツに棲みついたという感覚もまだない。
生活から日本語を全く排除して、ドイツ語だけで生活することもできるが、日本語にしがみつく自分もいるから、その狭間で僕なりのバランスを見つ、、、、結局、一生“似非ドイツ人”として生きていかなければならない。
どこは諦めるのか、悟るのか、受け入れるのか。
はぁ、映画の感想を書くつもりがまた変なところに行き着いてしまった。それもそれでまたいとをかし、か。
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