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デジタルネイチャーについての思索メモ

※これまた昔の読書メモ。せっかくなので備忘録として。
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本記事は、21世紀のビッグトレンドであり、近代の超克についての一つの打開策を提示した落合陽一氏の『デジタルネイチャー』という著書、ないしは思想に対しての、個人的な学びと今後への示唆をまとめたものである。

彼の描く思想はあまりにも深遠にして広範であり、今回はいくつかの論点に分けてコメントしていく。


【総論編】

“デジタルネイチャー“は今、生みの親 落合陽一の下から親離れした。

本書『デジタルネイチャー』において、思想としての“デジタルネイチャー”はついに体系化され、その全容を表した。これは、近代黎明期においてデカルトが機械論的自然観を、ベーコンが人間による自然支配を、アダムスミスが古典派経済学を唱えた際のように、思想的パイオニアによって生み出された新たな思想が、その後の知識人によって精緻化されていく様の端緒を垣間見ているようなものだ。

21世紀後半を先取る思想としてのデジタルネイチャーは、今後時代が追い付いていくにつれて、様々な分野の知識人・実践者たちがさらなる議論を加え、洗練されていくだろう。それほどに、思想としてのデジタルネイチャーは、21世紀における一つの重要なキーワードである。

それはなぜか。デジタルネイチャーは、今後来たるテクノロジーの秘めたる本質を的確にとらえ、それでいて、世界観、人間社会、認識論などの様々な領域に及んで、従来と全く異なる原理からの説明・構築を可能にしうるからである。

その点で、本書を読んだ読者は、本書にて著者が現時点でまとめた思想体系に反論をしてもあまり意味がない。なぜなら、すでにデジタルネイチャーという思想は、すでに生みの親としての落合陽一氏の下を離れ、21世紀への長い旅路を始めたからである。我々がやるべきは、まだ赤子のような姿で生まれた未熟なこの思想を、より正しい姿へと導くことでしかない。

そのようなスタンスで、本書への応答を試みたいと思う。今回は、世界観・人間観・社会観・認識論・経済観などの視点で、今後の思索への重要な示唆になった部分と、落合氏と筆者が意見の対立する部分をまとめておきたい。

【世界観編】

自然と人工、人間と機械の対立軸が消失した時、世界はどう見えるのか。

 思想としてのデジタルネイチャーにおいて、まず取り上げるべきは、この世界(宇宙)をどう捉えるかという原理において、従来と全く異なる説明を可能にした点である。

コンピューターテクノロジーが高解像度化し、世界のあらゆる事象を記述するようになると、それまで当たり前だった「自然」「人工」の対立軸にゆらぎが生じる。もはや、データの上で区別がつかなくなるのである。人間を含むあらゆる情報がコンピュータの中にある自然として存在するようになる。これこそが、デジタルネイチャーの世界である。

人間による人工物として発明されたコンピュータが、その内部に人間の解像度に十分な自然を再現することで、<人工>と、<自然>の両方を再帰的に飲み込みつつあるのだ。


例えば、ディスプレイ業界においては、数年前のフルHDの画質の16倍の細かさを実現した8Kディスプレイが市販を開始しており、テレビでの8K放送も今年度12月から徐々に始まる。人間の認識における解像度をすでに十分に超えており、もはやデジタルに投影された映像と現実の物質世界とは、認識において区別がつかない。

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近年のホログラフィ技術・ライトフィールド技術が本格化していけば、2次元を超えて3次元の立体物さえも現実と見間違う解像度で表現することが可能になる。テレビの語源「tele-vision」の意味としての「遠くのものを見る」をついに実現しつつあるといえる。

 また、これは人間が認識する対象物だけの話ではない。人間自身もその射程範囲なのだ。

例えば、人間とコンピュータを思考体として考えれば、その差異は処理系の物理的な実装にしかなく、データの上では両者を区別できなくなるだろう。そこでは、世界の万物がデータとして記録され、人間を含むありとあらゆる事象が「計算機の中にある自然」として存在する。

人間を、情報の入出力を行う情報処理体という観点に絞って捉えれば、それは実質的に機械と同一に考えられ、機械と同様の制御が可能である。具体的には、人間が自発的な意思で社会を操作しているように見えて、実質は人工知能が各人の個別の属性を把握し、社会の全体最適のために再配置するといったことが一部可能になるだろう。

人間と機械、より広くは、自然と人工という二項対立自身が、自然が生み出した人工によって再帰的に包摂される。もはや「人間が機械を支配(操作)する」という主客分離の構図が後景に下がり、両者を統合的・円環的に捉える世界観が重要になってくるであろう。

それが何を意味するのか。どの程度重要なのか。その重要な帰結はまだ考察しきれておらず、今後の重要な問いである。ただし、一つ明白な帰結は、人間中心主義の自然な脱却である。

※「人間を、情報の入出力を行う情報処理体という観点に絞る」というのは、「人間は(単なる)情報処理体である」ということと同値ではない。その違いがどれほどのものか、ということが、21世紀における人間の本質の理解において極めて重要なはずだ。


【人間観編】

人間は、偉大なる「自然の支配者」から、何者へと変わるのか。


 特に近代以来、人間は、万物の霊長、自然の支配者として君臨してきた。
「世界は神が作り、人間も自然もその目的のために極めて精巧に作られている」というアリストテレスの目的論的自然観への反論を行う形で、「人間も自然も定められた法則どおりに動くだけの、いわば巨大な機械である」とデカルトが唱え、その中で唯一「理性」を持つ人間だけが自然を支配することができるという認識が、近代社会の隆盛を作った。
 しかし、デジタルネイチャーの時代においては、自然だけでなく、人間自身も操作の客体になり、操作の主体については、人間だけでなく機械も含まれるようになる。つまり、二重の意味で「支配者」としての人間の位置づけは揺らぐことになる。

今後は<実質>と<物質>、<機械>と<人間> の区別がつかない世界になる。… そのとき、私たちの考えていた「人間らしさ」についての概念、つまり「人間性」そのものが脱構築されていくのだ。

 その事実自体は、悲観されるべきことではないだろう。個人的にはむしろ、人間がこの世界の中での本来あるべき位置づけに収まりなおす、重要な契機であると思っている。実際、近代以前を思い起こせば、例えば日本なら、「(畏怖すべき)自然に人間は生かされている」という感覚をアニミズム信仰の中で自然と持ち合わせていた。人間を特別視するセム的一神教の影響が弱い日本では、特にその変化を受け入れるポテンシャルがあるはずだ。


 その点で、今後取り組むべき重要な問いは、人間の位置づけの転換を受け入れたその上で、「人間が、支配者から何者へと転換するのか」という議論を精緻化し、そして、「その転換を無事に行うにはどうすればよいか」についての政策論議を行っていくことではないだろうか。

 例えば、天動説から地動説への転換時には、キリスト教からの迫害に合い、産業革命での人間の労働の代替時には、労働者からのラダイト運動に直面した。人間は存在論的、あるいは経済的なアイデンティティ・クライシスを迎える時、極端な行動をとりがちな傾向がある。
 今後、人間と機械がそれぞれどのような位置づけで世界に関わっていくことになるのか。何を機械に代替し、何を機械と補完しあい、何を人間独自の役割として持つのか、ということについて、きわめて入念に見つめる必要がある。
 人間の取るべき位置づけについて、一個人として現段階での仮説を一つ述べておくならば、人間は、世界のあるべき姿に向けての、「価値判断の決定者(表明者)」になることだ

 これは、世界を進歩史観的に、あるべき姿へと動的に進歩していくことを重要視した場合、「私たちにとっての進歩とは、どの方向なのか」を決めるのは人間だけだということだ。進歩として定義する方向が決まりさえすれば、人工知能はそれに向けて最適化問題を解くだけでよい。卑近な例でいえば、向かうべきビジョンを示すリーダーは人間で、そこに向けて到達方法を決めるマネージャーを機械が担うというイメージである。


 その点で今後、人工知能が強化学習などの方法で、累積報酬が最大化するように、学習しながら人間社会を最適化していくとすれば、その報酬体系をどのように定めるかが、重要な人類のテーマとなるだろう。なぜなら、「あなたは何を望みますか?」という問いに答えられるのは、人間だけだからだ。すなわち「モチベーション」や「欲求」といったものの重要性が増してくると考えられる。ニック・ボストロム氏はこの問題を、人工知能における価値観のローディング問題(value loading problem)として定式化しており、今後はより細部まで検討していきたい。


【経済論】

「価値を発揮する」という行為自体に、本当に価値はあるのか?

 経済、特に労働の在り方についての落合氏の見方が、本書の中で最も筆者と意見が異なる部分であった。まず、落合氏のいくつかの説明を引用しておく。人々の労働は、BI型とVC型に分かれ、後者のようなリスクを取って未知の可能性を開拓し続ける生き方が、人類にとっては重要な価値の発揮の仕方であると説く。

人々の労働は、機械の指示のもと働くベーシックインカム的な労働(AI+BI型·地方的)と、機械を利用して新しいイノベーションを起こそうとするべンチャーキャピタル的な労働(AI+VC型·都市的)に二極化し、労働者たちはそれぞれの地域でまったく違った風土の社会を形成するはずだ。
現行人類のコンピュータに対して優れている点は、リスクを取るほどに、モチベーションが上がるところだ。これは機械にはない人間だけの能力である。逆にリスクに怯え、チャレンジできない人間は機械と差別化できずに、やがてベーシックインカムの世界、ひいては、統計的再帰プロセスの世界に飲み込まれるだろう
これからの人類がやるべきことは「可能かもしれない想像上の産物」に対して、「さまざまな質問を問いかける」ために具体化して「それに集中する」こと。これが最も重要な価値である。

いくつかの疑問がある。
①すべてが「新たな自然」へと溶け込んでいく中で、落合氏の中で「自我」だけはまだ自然化していないのではないか。
(個人主義的価値観の残存)
②「人類の未知の可能性」に挑戦するという行為は、人類総体として実現すべき価値であり、個々人がそれだけを重要視する必要はないのではないか。
(価値の受益者と提供者の範囲の混同)
③「社会の二極分化」を当然視するよりも、人間が社会に向けて「価値を発揮する」という行為自体の価値が弱まる方が、よりデジタルネイチャーに近いのではないか。
順に説明していく。

 まず①について、落合氏が西洋の個人主義的価値観の脱出を説く別の記事の中では、デジタルネイチャーは以下のように表現されている。


個人が計算機ネットワークによって接続された集団や統計的学習プロセスをもたらすような機械学習のアルゴリズムに超克されれば、我々の文化がもつ(例えば松尾芭蕉の俳句で詠われるような)「三人称視点の自然」しか残存しないはず。いわば個別の人格は「テクノロジーと人間の掛け算で定義される新しい自然」に溶け出していく。僕はこうした未来像を「デジタルネイチャー」と呼称しています。


 すなわち、ネットワーク化されたアルゴリズムが重要性を増していく中で、一人称的な個人主義的人格は後景へと引き下がり、「新しい自然」へと溶け出していく。そして、現代の個々が幸福を獲得しようとする意識に対してもこのように述べる。

僕たち東洋人はそもそも「幸福」といった考え方をしておらず、元来「自然」な状態を求めていました。「happy(幸福)」よりも「comfortable(快適)」です。快適であるためには、心技体が一致している必要があります。価値観として幸福と言われる状態にいる人でもこの社会や自分自身に対して不快な状態にあると感じている人がいるのはそのためでしょう。


 すなわち、個々人にとって獲得する「幸福」というものは比較的西洋的で、東洋的には人々は元来、「自然」であることを求めていた。

 これらを踏まえた時、本書の中で、落合氏が個々人をBI型とVC型に分け、特にBI型人間について、「リスクに怯え、チャレンジできない人間は機械と差別化できずに、やがてベーシックインカムの世界、ひいては、統計的再帰プロセスの世界に飲み込まれるだろう」というように悲観的な口調で表現することには、違和感を受ける。

 その違和感とは、本来であれば自然の中へと溶け出していくはずの個々人の人格を、敢えて尖鋭に取り出し、かつ、「リスクを取る」という多くの人にとって「快適」ではない行為に価値を置く意識が、デジタルネイチャーの本来の姿とはかけ離れているのではないかという違和感である。

 本来たどり着くべきは、機械と人間の区別が融解するのと同じように、人と人の区別も融解していき、ネットワークを用いたオープンソース的な協働の中で、個々人にとって快適な生き方を送っている社会ではないだろうか。

 個々人の労働の在り方についての、本書での表現と、デジタルネイチャーの論理に則った時の本来あるべき姿との乖離の中に、落合氏の中でまだ自然化しきらない「自我」の存在を強く感じた。

 続いて②について。落合氏は、Google Xのトップの「可能かもしれない想像上の産物に様々な質問を問いかけるという作業に集中する」という言葉を持ち出し、リスクを取ってまだ未到達の未来へとコミットすることに人類としての最も重要な価値を置き、それを為しえるのはBI型ではなくVC型であることを述べている。
 これは、確かに人類にとっての一つの重要な価値ではあるが、問題は、それだけが重要なのか、そして万人がその価値を目指すべきなのか、ということである。そこに著者のミスリーディングがあるように感じる。

 価値論の問題については、形式的に以下の3つのレイヤーに分けることができるだろう。
 まず、数十年から100年単位のスパンで、人類をどのように、どんな方向へと進歩させていくかといった点での「(人類史的)価値」。Google Xのような超高度な知的活動は、まさにこの領域の価値を生み出しているといえる。
 そして第二に、長期的な進歩は置いて、直近の社会の中での人々の抱える諸問題をどう緩和・改善していくかという点での「(社会的)価値」。これは、例えば政治家や社会起業家、一般の社会人などが特に役割を担っている領域であろう。
 第三に、社会の問題を置いておいて、自分自身にとっては、どのように生きることを望むのかという点での、「(個人的)価値」。これは誰しもが主役であり、自分自身に問うているであろう価値である。

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 落合氏の重要視する、フレーム外部の可能性を探求し、人類の未踏の領域を実現するようなVC的な生き方は、確かに「人類史的価値」を持つものではあるだろう。ただし、デジタルネイチャーへと向かう今後数十年の間にも、格差の問題の克服や、精神的に疲弊した人々へのケアの問題など、必ずしもすぐに機械に全てを任せることができない領域における「社会的価値」は大いに重要視されしかるべきであるはずだ。その点で、必ずしもリスクを大きくとっている訳でもないBI的な生き方を行う人も、十分価値を発揮しているのであり、過小評価されるべきではない。

 最後に、③について。二極分化へと向かうことが予想される社会において、資本の再配分、すなわち経済的格差をどのように克服するかという問題は、確かに今後も極めて重要な問題であり続けるはずで、それは今後も大いに注力すべきである。ただ今回筆者が少し着目したいのは、今後、機械も人間と同等以上に社会的に価値を発揮するようになってきたとき、人間にとって、社会に向けて「価値を発揮する」という行為自体が持つ価値が弱まっていくのではないだろうかという点である。

 機械による生産性の向上に伴って限界費用がゼロに近づき、最低限の生活は労なくして送れるようになったとき、労働という行為を通じて社会への価値提供と引き換えに資金を稼ぐ必要は弱まってくる。もちろん、上述における「個人的価値」のうち、「社会的価値」と一致する領域については、労働を通じてその価値を提供しつつ享受することは自由に行われるべきではあるが、問題は、社会が「価値の発揮」という命題に縛られているところから解放されるべきではないかということだ。

 わざわざこの論点を取り上げているのは、落合氏自身が、労働から解放された<楽園>で自由を得られる人間はほんの一握りしかいないと述べているように、現状の社会構造において、機械に代替されない価値を発揮できる人間とそれ以外の人々との二極分化がこのままでは起こる中で、一つの打開策は、そもそもその二極分化のテーゼ自体の重要性を弱めることではないかと思うからだ。
 個々人にとって「自然(快適)」な状態を生きるのがデジタルネイチャーなら、自分の個人的価値とは一致しないが社会的価値があるような行為を必要以上にリスクを取って行うような「べき論」の生き方よりも、個々人が、自分の個人的価値にもっと正直になり、個人的価値と社会的価値の一致する領域をワークアズライフとして行うような、「あるがまま論」の生き方の方が、より自然ではないだろうか。
 その際、もはや「労働からの解放/隷従」という観点から見た楽園/奴隷という本書での二極分化のテーゼ自体は意味がなく、むしろ多様な労働・生き方が花開く多極分化の豊穣な美しさがみえるはずだ。

 もちろん、これは安易にその風潮を進めると、現実に必要とされている労働需要との乖離に苦しむ人々が多発するので、具体的な政策論議は極めて重要ではあるが、今回指摘しておきたいのは、そのような無為自然的な労働観の方が、デジタルネイチャーの世界観にとっては適切ではないだろうかという点である。
 

【認識論】
【社会秩序論】
疲れたのでまた今度。


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