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ネガティブに起業した僕の行く先

2013年4月18日。子供が産まれた。切迫早産の妻が入院し3ヶ月24時間点滴を打ち続け、身も心もボロボロになりながら産んでくれた第一子、長男。
平均よりも小さめの体とは裏腹に、こちらをジッと見つめる大きな瞳からは無限の可能性を感じた。それと同時にすっかり大人になってしまった自分とを比較し、自身の可能性の狭さと成り行きで生きてきた事を深く後悔した。僕は自分の人生、生き方に不満を持っていたのだ。
「お前は俺と同じような人生を送るなよ。」
悲しいメッセージ。産まれた瞬間から子供に胸を張れない父親。
そのままで良いはずはなかった。

子供が産まれた事はきっかけの一つに過ぎない。でも僕は確かに0歳児の息子から刺激をもらい、それは新しい人生を踏み出す大きな第一歩となった。

後継ぎである事を理解していた子供時代

1987年7月14日。土砂降りの中、僕はこの世に生を受けた。
子供の頃から父の仕事が税理士で自営業であることを理解し、将来税理士になれば父親が喜ぶと思っていた。ちなみに小学校の卒業アルバムの将来の夢の欄には「税理士」と書いた。12歳の時点で税理士になるんだという意思が少なからずあったことが分かる。

受験をして私立中学に入った僕は推薦で大学まで行くことが出来た。おかげで高校受験、大学受験のない青春時代を過ごすことになる。好きな事にたっぷり打ち込むことは出来たが、大学選びという人生を真剣に考えられる最初の機会を逃したように思う。僕は迷うことなくエスカレーターで大学に進学した。
大学でも税理士になることだけをイメージして経営や会計の授業を専攻。ギリギリの成績で大学を卒業する頃には深く考えもせず父親の税理士事務所に就職する気になっていた。

目の前にある安全なものばかりを選ぶ生き方

そのまま流れに身を任せ、大学卒業後は父の税理士事務所に入った。大まかな仕事内容は企業の会計帳簿にミスが無いかをチェックして業績を確定し、分析して経営者に共有する事。その中で経営者の様々な問題課題を拾い上げながら解決のサポートをしていく。
やりがいのある仕事だが、僕にとっては恐怖心の方が勝っていた。自分のせいでお客さんを大損させてしまったらどうしよう、やり忘れや見逃しはないかな・・・。
お金が直接絡んでくると、当然お客さんとの対応もシビアになりがちだ。とはいえ僕は担当先のクライアントから信頼されていたように思う。しかし「あなたのおかげで〜」と言われる度、達成感や充実感よりも先に安堵感があった。

信頼を失わないようにミスをしてはいけないという緊張感。家業だからという理由で仕事を選んだ希薄な責任感とモチベーション。
一生この仕事を続けていくという未来が見えている虚無感。
ある朝、僕はとうとう玄関から動けなくなってしまった。遅刻、欠勤が増える。
その頃には既に結婚をしていて、子供が産まれたのはそんな時期だった。

「つらい。辞めたい。」
「もし私達家族のために辞められないって思ってるなら、辞めてもいいんやで?足枷になりたくない。」
「それもあるけど、辞められるわけない。父親の会社やで。」
「なんでお父さんの会社だったら辞められないの?」
「私は楽しく働いてくれるんだったら何しても良いと思ってるから。」
「お父さんも、自分の会社で息子に苦しい思いさせたいなんて絶対思ってない。」

そんな事を妻と話しているうちに、
もしかして「こうやって生きていかなければならない」と思い込んでるだけじゃないか?
自分の可能性が狭いと決めつけていただけじゃないか?
0歳の息子と同じように、今からでも何にでもなれるんじゃないか?
と考えられるようになった。

僕は転職を決意し、勇気を出して父に手紙を書いた。

自分で決めた道に踏み出す

手紙を持って実家に行く。父は「そんな気がしていた」と言って手紙を受け取ってくれた。しかしやはり納得しきれない部分もあり、そこから毎月の家族会議が始まった。
ちなみに僕には税理士の兄がいる。なので僕が辞めたところで後継者不在問題が勃発するわけではない。しかし父の思いは「兄弟で後を継いで二人で頑張ってほしい」というものだった。

家族会議は、父と兄、たまに妻や母も入りながら1年に渡って続いた。
この家族会議は僕の人生の中でもすごく印象的だ。兄の長男としての責任感の強さを感じられたこと、父が子どもたちをいかに愛しているかを感じられたこと。感情的になるシーンもたくさんあったが、これまで家族とここまで感情を見せあうことはなかった。
父は辞めずにやりたいことをやれる方法もいろいろと提案してくれたが、僕はとにかく実家の事業、というか親の元から離れて自分の力だけで生きて行きたかったので、首を縦にふることはなかった。

僕はこの家族会議の1年の間に資格の取得や面接で語るための実績作りに努めた。1年間気持ちは全く揺れることなく、大きな会社に入ってサラリーマン戦争を勝ち上がり出世するんだと気持ちを高ぶらせていた。
自分でも驚いたのが英語だ。強烈な苦手意識があったのに9ヶ月でTOEICの点数が400点近く上がった(元の点数が低いことはおいといて・・・)。自発的で明確な目的意識があればこんなに頑張れて、こんなに結果が出るものかとこの先の自分の人生に期待がみなぎった。

家族会議もうまくまとまり、家族だけでなく職場の同僚からもたくさんの応援を受けて僕は転職活動を開始した。結果、一部上場企業の社長室兼財務企画という最高のポジションに就かせていただいた。転職活動としては大成功だろう。

妻も親も兄弟も、みんながホッとした。
・・・しかし、このとき僕はこの会社をたった3ヶ月で去ることになるとは微塵も思っていなかった。

サラリーマン脱落、起業

意気揚々と転職してわずか3ヶ月で退職。会社を辞めた理由は1つではなかったが「働く」という事が自分には出来ないのではないかとさすがに自信を失っていた。2歳になりたての息子を抱きしめてダメな父親でごめん、と涙を流す情けない僕に妻は本当に明るく接してくれた。
「そんなすぐに上手くいったら人生楽勝やん。今は働くこと考えずに休もう。」
1ヶ月間仕事の話をせずに家族でゆっくり過ごした。ピクニックに行ったり写真を撮りに行ったり。この1ヶ月は本当に大切なものとなった。

1ヶ月が過ぎても、僕はどうやって生きていくのか決めきれずにいた。
田舎で農業に挑戦してみる?専門学校に入って何か手に職をつける?
何が何だか分からなくなっている僕は、妻に連れられてある人物と出会う。

彼は建築士の友人Oくん。妻の大学時代の友人で、会社勤めを辞めてフリーの建築士として独立したところで、当時彼はボロボロの町家に住んでいた。
「会計が分かるの?必要としている人いっぱいいるよ!」
「それだけ貯金があるんなら何でもできるやん!」
「無敵やん!」
彼は人をやる気にさせるのが本当に上手で、生きる術はもう何も残っていないと思っていた僕に一歩踏み出す勇気をくれた。

そんなこんなで、2015年6月個人事業を開業し、会計ソフトの導入支援や、簡易宿所などを始めるところから僕の起業人生が始まる。
現在ではシェアオフィス事業やカフェ事業、今も新しい事を始めようと既存事業の運営を行いながら日々動いている。

一歩踏み出すのに覚悟なんていらない

父親の会社をワガママを言って飛び出した。
転職先から短期間で逃げ出しキャリアにも傷がついた。
途方に暮れた僕は最終手段として起業することにした。

税理士事務所に勤めていたので多くの自営業者の苦悩を見てきたし、そもそも飯のタネになるものなど持っていないと思っていたが、思わぬ出会いから自分のスキルにニーズがあると気付き、一歩を踏み出してみることになる。

消去法というネガティブな理由で起業したのだから、覚悟も何もない。
「俺は起業して世の中にイノベーションを起こすんだ!!」なんて考えるどころか、起業なんてリスクを取るものじゃないと思っていた。

でも今は自分の仕事に命をかけていると胸を張って言える明確な覚悟と責任感を持っている。
それは、父親になるぞ!と父親になったのではなく、子供が生まれたら次第に父親になっていったのと同じだ。
無職になったので生きるために自然と自分で事業を作っていくしかなくて、積み上げ続けた結果、知らない間に覚悟と責任感がついてきた。
別に起業じゃなくても、転職でも、海外留学でも、結婚でも何でも「やりたい」と思えば、小さな第一歩でいいからとにかくやれば良い。

全部自分で決めて、自分が拓いてきた道。
だからこそ毎日がこんなにワクワクする。みんなが応援してくれる。
2019年7月。まだ31歳、起業して4年。これからも様々な困難が待ち受けているのだろうが、誰かに決められた訳でもない自分の道だから力強く進んでいけると思う。

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