傍からみていて高校野球について思うこと

高校野球が毎年春や夏になると話題になります。コロナウイルスの影響で中止になったりならなかったり、それから飛び火していろいろなところで話題になっているようです。
今回は学生時代野球部でもなく、どこの高校が強いとか全然知らないごくごく普通の一般人サラリーマンが高校野球について思うことを徒然と書いていこうと思います。

高校野球は面白い

野球という競技は面白いものだと思っています。特に見る分にはかなり面白いものです。それは野球漫画に名作が多いことからもわかります。1人あたりおよそ10分、それを九人でおよそ3-4巡する、あの対戦システムがいい。投手を主人公だと捉えれば一人で九人もの敵キャラを倒し、その上で数回対戦していく過程でキャラクターを掘り下げることもできる。

実際の野球もほとんどこんな感じな気がしています。その上高校野球は選手全員が「負けたら終わり」という緊張感のもとで戦っているのも面白い。もちろんリアルタイムであっているので、最後までどの様になるのかわからないという緊張感も素晴らしいです。

マスコミが作り出したムーブ

高校野球が面白いのは理解できます。ですが、正直「そこまでか?」と思うのもまた事実でした。というのも今はeスポーツに代表されるようにいろいろな場面で「手に汗握るギリギリの戦い」を見ることができます。他のスポーツ選手も多くいる中で野球だけ特別扱いするのは意味がわかりません。

いえ、もちろん、理解できないことはありません。単純に多くのお金をそこに投資しているため、さらに言えばこれまで蓄積してきたおかげでそこに多くの視聴者がいることが期待(錯覚)できるためです。テレビ番組がご高齢の方々を対象に作られたものだと理解していれば、テレビが高校野球を大々的に取り上げるのはわかります。

例えば、球場一つとっても、資金を確保して、土地を確保しなければなりません。それに、何より人的資源の蓄積が課題です。野球を題材にするにしても選手がいなければなりません。選手も普通の人ではだめで、才能のある人がかなり努力してたどり着けるぐらいの上手さが必要です。そうなると教育者も必要です。結局、人を惹きつけるためにはお金が必要です。

マスコミはこれまで多くのお金などを野球に投資してきたように見えます。ニュースでスポーツを映すのもほとんどが宣伝だと考えて良いでしょう。「お金で人をひきつけ→放送することで試合に多くの人を集客し→そこに価値があると思い込ませさらに多くの人をひきつける」というサイクルを「野球」という競技を使って作成してきました。野球自体が面白いことは否定しませんが、このようなサイクルが「野球」という競技とは本質的には無関係に出来上がっていたことも、また事実であるように思えます。

こういうわけで、野球は明らかに特別扱いされているように思います。それは「お金になる」という意味での特別さです。個人にとって特別かどうかではありません。そういうわけで芸能人など多くの人がこの問題について言及するのは当然だと言えます。

インターハイが中止になったときに騒がなかったのに野球に関してのみ騒ぐのはおかしい、という意見を聞いたことがあります。ですが、上のような理由から、お金が動き、多くの人が動く野球についてのみ騒ぎになるのも当然です。「インターハイが中止になったときに騒がなかったのに野球に関してのみ騒ぐのはおかしい」という人はインターハイが中止になることで騒いで欲しかったのでしょうか? 多くの人に注目してもらいたくて、多くの人に認めてもらいたいのであればまず重要なのは分野選びです。

また「お金になる」と書きましたが、それが特に悪いことだと思っていません。例えば、野球が好きで少年野球の監督を熱心にしている人に月々20万円程度の収入があることを私は悪だとは思いません。妥当な収入だと思っています。ただ、以下の点で私は少しだけビジネス的な不安を感じています。

誰が甲子園をめざしているんだろう

私が不思議に思うのは「一体誰が甲子園をめざしているんだろう」ということです。よく知りませんが炎天下の中、数日に渡り競技を行うせいで体に悪影響がありそれで選手生命を縮めることになるのだそうです。

ということはプロ意識のある若者であれば甲子園なんて真面目にめざさず自分の健康と実力をのばすことに執着するでしょう。仮に「ここで全てが終わってもいいから全力を出す」という人と「この先も実力を伸ばして長くやっていきたいから甲子園は八割の力で」という人だったら、どちらが正しいのでしょうか。

どちらが正しい、という意見の決着はつかないかもしれませんが、問題はこのような議論が生じる点にあります。すなわち「実力があっても全力を尽くさない人がいる可能性がある」という点です。それは「甲子園でトップだったものこそがトップだ」という神話の崩壊、あるいは高校野球が求めているそもそもの「若者の必死さ」の崩壊にほかなりません。負けたチームのキャプテンが「まあ、今回は温存していたのでこんなものだと思いました」なんて言われたら違和感があると思います。しかし、豊かな社会ではそういう未来もありえます。私はむしろ若者にはこの程度の冷静さを持ち合わせて欲しいと思いますし、そのような教育者が近くにいるとありがたいのに、と感じます。

逆に言えばこの頃から「高校野球選手」ということを意識して「必死にやっていた感」を演出できるのだとしたら紛うことなきプロ意識を持ち合わせた選手だと言わざるを得ません。

たまを遠くに飛ばせば良いだけなら大砲を使えばいい。早くボールを射出するだけならピッチングマシーンでいい。早く走るだけなら車でいい。それなのに私達が何の実用性もない野球選手にお金を出すのかといえば、彼らが人間だからであり、その人間性に感動しているためです。「野球がうまい」という人間性に感動しているのです。これはアイドルも、俳優も、多くの人気商売においてかわりありません。ですが、人気商売はあくまで商売の方向性、つまり他者を幸せにするための方向性です。願わくは自分の幸せのためにスポーツを楽しんでほしい、と思わずにはいられません。

甲子園の話をするとお金の問題や選手の気持ちの問題や選手生命の問題など一見するといろいろな問題が絡み合っているように見えます。ですが、一つ一つの問題を整理していくとビジネスの話や個人の幸福論の話、ブラックな組織体制の話に行き着くような気がしています。これらは社会ではごくありふれた問題であり、物質的に貧しかった戦後から豊かな社会として変化する過程で生じるずれのモデルケースの一つであると言えるでしょう。

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