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無敵の人に表現規制は無意味

京王線で刃物を振り回して1人に大怪我をさせて、ライターオイルに火を点けて車両の一部を燃やした事件が起こった。その犯人は事件の数ヶ月前に起きた小田急線の事件を模倣し、映画『JOKER』の主人公の衣装を着ていたことが大きくクローズアップされた。

そこで、元アナウンサーの木村太郎氏が、「こういう模倣犯が出るから『JOKER』の放映は規制した方が良い」という旨のコメントをテレビでしていたが、これは全くの見当違いだ。

こういう事件が起こると、必ずと言っていいほど映画やアニメが批判の対象になり、表現規制や自粛を求める声が上がる。30年以上前に起きた宮崎勤による幼児連続殺人事件の際の有害コミック騒動や、優生思想に立ち大量殺人を犯した植松聖がヒトラーの『我が闘争』を読んでいたことも思い出す。

とは言え、そんなごく稀なケースのためにアニメ作品の表現規制をかけたり、『我が闘争』を発禁にしたり、『JOKER』の地上波放映を規制するのも全く無意味であるのは言うまでもない。そもそもCMが10分おきに入るような地上波で今さら映画を観たいという人は少数派だろうし、AmazonPrimeやNetflixで事足りるだろう。

最近話題の『イカゲーム』は残酷な描写が問題視されている(この作品も『バトルロワイヤル』という元ネタがある)けれど、結局のところ残酷な描写をいくら規制してもそれを求める人は別の場所に逃げるし、そうした表現は作品の本質ではない。

優れた芸術作品はその人の生き方に(良くも悪くも)大きな影響を与えることは確かだ。『JOKER』のラストシーンでCREAMのWhite Roomがかかるんだけど、それはホアキン演じる主人公アーサーの全くの夢想だったのか、それとも格差による閉塞感をぶち撒けるための身勝手な暴力だったのか、それは受け手に委ねるシナリオになっている点が重要だ。

そもそも伏線にはデニーロ主演の名作『キング・オブ・コメディー』があって、それゆえ映画好きを唸らせる秀作になっていた一因だろう。日本の地上波公開を禁止したい木村太郎みたいな人は、多分『JOKER』をちゃんと観ていないし、『キング・オブ・コメディー』も観てないんだろう。

アーサーには妄想癖があって、しばしば現実逃避する(本当は自分は選ばれた人間なんだとか、恋人との幸せな時間があったんだと思い込む)シーンが多いこともこの作品において見逃せないポイントになっている。

額面通りにこの作品を受け取ったとしても、むしろ社会から排除された人間がヘイトクライムを起こし、White Room=精神病棟に収容されるしかないというオチになっていて、アーサーに共感できる箇所はほとんど無い。現実に起こっている社会格差や不満をテーマにしつつも、あくまでもエンタテインメントとして成立させている点が多くの人を惹きつけたのだ。

さらにもう一歩踏み込めば、アーサーがやったことの全てが妄想でしかなく、これこそコメディだと受け取ることもできる。映画という虚構を現実に置き換えてしまうようなバカは、まさに笑えないジョークでしかない。

全ての表現活動(芸術作品)に罪はない。それが政治的な意図があろうが無かろうが、猥褻であるかそうではないかとか、受け手が(生きている時代の価値観を含めて)どう判断するかであるし、常に優れた作品は過去を参照しながら、未来を提示する。

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