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二十年ものあいだ漫画を描けるようになることを目指してきた

『もしも叶うなら』という話を書いたら反響、というかメッセージが来た。

「未来じゃなくて過去を変えることが叶うなら」という文章が、ほんのり心をあたためられたというお声だった。嬉しい。

多くのひとの心の片隅には願い事がある。だけど考えすぎるとそれは「不足」や「不備」や「不満」に繋がってしまうんじゃないだろうか。

もっとモテたい
もっと金持ちになりたい
もっと寝たい
もっと痩せたい
もっとイケていたい

いつも笑顔で語れたら良いのだが、頭を抱えすぎると、今の自分を否定することになる。「モテていないからモテたいし、お金がないから富豪になりたい」という思考回路は少しデンジャラスだ。

その点、「もしも過去にアレが叶うなら」というのはラクだ。絶対に変えられないわりに、過去の自分の背中をさするぐらいの効果はある。

では逆に笑顔で語れる「現在、もしもこれが叶うなら」を考えてみる。

これはもう「漫画を描けるようになりたい」の一択である。

僕の小学校では三年生になると「クラブ」という謎の科目が増えるようになる。

どういうものかというと、体育系、文化系の中に複数種の選択授業があり(バスケ、ソフトボール、料理、手芸……etc)、好きなものを選択できるのだ。

僕はその中で「漫画クラブ」というものを選んだ。

理由は幼稚園の頃から漫画っ子だったからだ。五歳からジャンプを読んでいたし、書店にある漫画すべてを手にしたいと考えていた。友達はマリオやポケモンに夢中だったが、僕はコミックに夢中だった。

小学校に入ると親に「生まれる前の作品にも触れる必要がある」などと訳の分からないねだり方をして、『あしたのジョー』や『キン肉マン』や『三つ目がとおる』などの古典を読んだ。おかしな子どもだった。

そして「自分は漫画の申し子であり、漫画のことを語らせれば同世代では右に出るものはいない」と壮絶な勘違いをしていた。

しかしインターネットもない時代なので、個々の情報量には偏りがあったのはたしかだ。もろちんWEB漫画なんかも存在しないので、現代より作品数も少なかった。それゆえ「みんなの知らない漫画を知っている」は今よりもステータスだった気がする。

「漫画家になろう」などと考えたことはなかったが、正直、漫画クラブにいるまわりのライバル共とはレベルが違うと思っていた。自分が漫画クラブに入部すれば完全に無双すると信じていた。

「クラブ」の時間になると、クラスメイトは散り散りになる。体育系の者はグラウンドや体育館に飛び出し、文化系や調理実習室や理科室に吸い込まれていく。体育や音楽などの移動教室と似ているが、クラスのメンバー自身がバラバラになるのはこれまでにない体験だった。

漫画クラブは上級生の教室だった。
踏み入れたことのない高層階に行くのは胸が踊った。

教室には他クラスの会ったことのない連中がうじゃうじゃいた。不安もあったが、同じことを選択した連中の中に飛び込むのは内心楽しみだった。
席に着くと、さすがは上級生の勉強机で僕たち三年生のものよりもずいぶん大きかった。

「漫画クラブ」の担当の先生は二十代の若い女性だった。

「うちの学校のどこにこんな美人がいたのか」と思うほど綺麗で優しい先生だった。自分のクラスの鬼ババアを思うと、クラブだけでなく担任も選択制にしてくれねーかなと文科省に直訴したい気持ちになった。

最初の授業で先生は「四コマを描きましょう!」と言った。広末涼子に似ていた。

なるほど。四コマ。
たしかに高い画力も必須ではないし、起承転結における構成力のトレーニングにもなる。何よりもコマ割りを考えなくていい。シンプルに「ストーリーで読者を楽しませる」という漫画の基礎が学べる良い課題だ。

だがそれはあくまで素人レベルの話だ。
こちらはもう何百冊も読破してきている身だ。面白い漫画、つまらない漫画の法則的なものもある程度頭にインプットされているのだ。

先生が教室内を歩いて、クラブ生たちのノートを覗いては「わぁ!上手ね!」などと声をかけていた。女の子なんかはアホ男子と違い、平均的に絵が上手いように見えた。たかが四コマ、されど四コマだ。

先生が僕の席までやってきた。僕のノートは真っ白だった。

「あれ?どうしたの?」

僕は声変わりしていない声で「俺はな。お絵かきごっこをするつもりはない」と言った。

今思っても我ながら意味がわからない。お前は絵を描きに来たんじゃないのかと問いたい。

「んー?じゃあ何が描きたいの?」と先生が聞いてくれた。

「バトルファンタジー。それも長編の。先生知ってる?『ダイの大冒険』とか『ドラゴンボール』みたいな」と僕は答えた。

「描きたいのが描けるといいね」と先生は笑っていた。僕は「うむ」と返事をした。

「僕のことを見てください」を超訳すると「お絵かきごっこをするつもりはない」になるのだろうか。頭の悪い子どもというのは本当に何を言っているのか分からないときがある。

僕はとにかく描きまくった。先生に認められたかった。理解に苦しむイキりや高い理想はすべて「俺は他のやつらとは違うんだ」という叫びだった。

その根性の果てに、漫画が刻まれた自由帳が二十冊以上積み上がった。そして仰天するぐらいに上達しなかった。

「練習というものは量が質を凌駕する」と信じていたし、『スラムダンク』で桜木花道がやったシュート二万本の練習の破壊力を知っていた。

上達しない原因が才能の問題なのか、たくさん描いただけで試行錯誤を微塵みじんもしていなかったことなのかは分からないが、いまだにこのレベルである。

「そりが合わない」

この絵でどういうバトルファンタジーをやるつもりだったのか聞かせてほしい。

「あんたのために言ってるんだからね」
「副流煙」

なんというか僕は3Dに絵を描けない。平面的な絵しか描くことができないのだ。
意識して、3Dに描くと下記のような感じになる。

「行き倒れてしまった」

広末先生に「近くのものは大きく、遠くのものは小さく」と習ったのでやってみたが、思うようにいかない。
今一度、何が「お絵かきをするつもりはない」なのか教えてほしい。もしも叶うならタイムマシンで平成九年に行って自分の頭を殴りたい。

そして二十年以上もこういったものを描き続けている。

もはや伸び悩んでいるとかそういうレベルではない。二十年前に成長の天井に到達しているとしか思えない。もしも叶うなら、あのときの自分のひん曲がった性根を素直に叩き直したい。

描いてみると、叶えたいことが多すぎる。素直さを失っているせいで、線もまっすぐ引けない。叶うなら引けるようになりたい。

余談だが、ニコ・ニコルソン先生という漫画家の方と対談したり、ジャケットを手がけてもらったことがある。

「プロの漫画家と話せている」というのに超興奮していた。「漫画家と喋った!」と世界中に自慢したかった。いろんなミュージシャンと話してはきたが、そんな感情になったことはない。漫画家の先生を死ぬほど尊敬している。それでいて素直になりたい。もしも叶うならだけど。

描いてみた。







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