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「元気過ぎるひと」は何かしらがキている。「元気なひと」と「元気過ぎるひと」のあいだには溝がある

元気、気合い、根性、モチベーションみたいな言葉がある。「精神的な興奮」を指すワードだ。

これらには適量があって、その量が結構シビアだったりする。ラー油ぐらいにはシビアだったりする。何事も『過ぎたるは及ばざるが如し』というが、元気過ぎててぶっ壊れてるとしか思えないのが、そこの定食屋のおやじだった。

彼は僕の身の回りにいる人間の中でも、取り分け元気なひとだった。そんな元気すぎる定食屋の親父が少し前に失踪した。

意外か、と聞かれるとそうでもない。深夜のコンビニのような明るさだったおやじの、あの輝きはもうどこか壊れていたとしか思えなかった。正直、ずっと心配していた。

僕は勝手にそのおやじを「及ばざる元気さを持つおやじ」と命名していた。振り返ると「過ぎたるは〜」の言葉通りの人物だった。
心で陰口を叩きながら、おやじの定食を食べてきた。それにしても凄まじい元気さだなと思いながら、食べてきた。ちなみに味は悪かった。そして味の悪さと元気さも相まって、店はまったく繁盛していなかった。

それにしても僕は昔から不安や心配ばかり的中してしまう。「雨が降る気がする」というと、じっさいの降水確率も上がってきたような気がする。おやじも天候と同様だった。

書き置きだけ残して、行方知らずになってしまったらしい。

それにしても「失踪」とはなんだろう。僕が上京してから何人ものひとたちが失踪した。平成が終わり、新時代が来るほどには未来になったのに未だ「失踪」というものは減らない。手のひらの窓にあるグリーンのアプリケーションから簡単に連絡が着くテクノロジーがあるのに、人間は失踪する。ひとというものは定期的にいなくなってしまう。

それでも、かつてよりは「疾走の流儀」は変わってきたんじゃないだろうか。アプリ一報を入れればいいだけなので、ライトに消え失せることができる。「アディオス」ぐらい発信して、断絶を図るケースが相次いでいるらしい。

おやじのやった「書き置き」はそんな時代と逆を行く、「古き良き時代の疾走の流儀」だ。アプリとは異なり書き置きには返信機能がない。連絡が取れない真の一方通行感を感じる。

一概に失踪が悪いこととは言わないが、それがやむを得ない最後の手段だったのなら、やはり悲しい。

あの店が今後、どうなるのかは分からない。

しかし、「元気過ぎるひと」は何かしらがキている。「元気なひと」と「元気過ぎるひと」のあいだには溝がある。マリアナ海溝よりも深い溝だ。

自分を啓発して、奮い立たせて、狂気を孕んだ覚醒には制限時間があるのだ。呼吸を止めて全力疾走するようなものだ。

時間がかかるように見えるけど、呼吸が弾むぐらいのペースの方が遠くまで走れたりする。ヘラヘラやる方が、耐久していくなんて、そんなことは山ほどある。

もちろん気合を入れてやらないと話にならないタイミングもある。スパートをかけて、自分にムチ打つことを避けまくると、何も起こらない人生が待っている。

かといって、気合や是正や改善や正論は正しすぎる。「頑張んなきゃダメだよ!」なんて当たり前すぎて、誰も救わない。

それを許すような、歌や本。正論からはみ出したようなものだけが、自分を救ってくれたりするのも事実だ。言葉は誰かを救うために投げかけたら救うし、誰かを正すために投げかけたら殺すんじゃないだろうか。

そういやここでも似たようなことを答えた。


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