当事者意識こそが自分を救ってくれる
「支えてくれるひと」がいるとずいぶん違う。
状況がが悪いときなんて、ギリギリ自分を諦めない救いになる。「あのひとがいるからもう少し頑張れそう」なんて経験が誰しもあるだろう。
これは何も男女の関係だけではない。男同士でも命綱になるし、推しがいるだけでもいいし、もはや犬や猫でも映画でもマンガでも店でもいい。それぐらい「自らを支えうるもの」の存在は大きいものだ。
しかし自分を奮い立たせるのは、結局自分自身しかいないのもまた事実だ。
「支えてくれるひとや、それに類するもの」が支えられる重量には限界があるからだ。
苦しいときに自分自身に同情しすぎても力が目減りするし、同情したところで一歩も進まない。「かわいそうなワタシ!」という考え方、被害者意識は何も生まない。反して当事者意識こそが自分を救ってくれる。「俺が、この俺がやるのだ。俺しかいないのだ」という心構えで取り組めば何とかなる。
街を歩くと「癒し」を売るビジネスが乱立している。
たしかに僕も癒しが欲しくなるときもある。
だけど、半分近くは自分に言っているが、「俺を、癒せよ」という癒されたがりを見ると、異様に冷めるのだ。
傷や孤独が自分の中の漢を殺すときがあるのも分かるし、そのまま線路に飛び込む中高年の数の膨大さにも圧倒される。苦しい苦しい。日々は苦しいものだ。
しかし中高年ならいざ知らず、まだ二十代、三十代の男ならば、疲労困憊すぎないだろうか。
「癒されようとしすぎでは」、「支えられようとされすぎでは」と思わずにはいられない。
「支え」が足りないのだろうか。
「支え」と巡り合う確率はインターネット黎明期以降、高まり続けているはずなのに、実際の世界を埋め尽くす孤独の総量は、年々増えている気がする。
そしてその孤独を安易な方法で埋めてしまえるサービスも溢れかえっている。
もはや癒されすぎて、傷や孤独と格闘する闘気が萎えきってしまっていないだろうか。
人間には色々な季節がある。
支えられようとしすぎな時期だって来る。毎日シャカリキにもなれないし、折れてしまうタイミングもある。
だが、ツケはツケとしてガッツリ利息付きで溜まる。
すると次第にいろいろ間違えだす。
ギブアンドテイクではなく、「ギブ・ギブ・ギブ」の精神だとうまくいくと言うが、ツケが溜まると「テイクが前のめりすぎる野郎」になってくる。
うまくいかないどころか、親友にもウザがられる。
あなたは様々なひとに支えられている自覚も要るが、あなたが様々なひとを支えている自覚も絶対必要なのだ。
誰しもが誰かを支えているはずだ。ヒモだってニートだって犯罪者だって、きっとどこかの誰かを支えている。
「誰一人支えている覚えなどございません!」という厚顔ゴリゴリだと浮く。かなり、プカリと浮く。
「自分だって誰かを支えているのだ」と気付くと、ほんのり自信と誇りが心に粟立つ。
そして「助けになってやりたい」と思うやつもいれば、「こいつは支えたくないなぁ」と呆れるやつもいることに気付く。後者を反面教師にできるようになるのだ。
僕もあなたも誰かのためになっている。そう思うだけでなんとなく疲れが取れたりしないだろうか。やはり人間は誰かの役に立つと嬉しいのだろう。
本日はTBSにら23:56から登場。
「高校生たちが怒りをぶつける手伝いをする」という天職としか思えない仕事。芸人パワーで現場、味方、閃光が殺傷力100億倍の替え歌に。
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