読書のパワー!
動画全盛時代だが、本を読む人口はどうなのだろうか。少し減ったというデータもあるが、書店に足を運べばひとはいる。どんなに読書人口が減ってもゼロにはならないのだと思う。
「文字」というのは古代バビロニアで生まれた通信なわけだが令和の今までしっかりと残っている。言語形態はnoteだけじゃなくて、動画内のテロップなどで大活躍だ。
昨日、「なんか本屋行かなきゃ」と謎の焦燥感にかられたので街に出た。紀伊國屋が混んでいたので、ブックファーストまで足を運んだ。前者は新宿東口、後者は西口にある。
僕はこのブックファーストに育てられた。
2011年の春、震災で微動だにできなくなり、あらゆる仕事ができなくなった時期がある。バイトしてた会社からは6割ほどの給与が支払われつつ、ただただ放置された。
働かなくて暮らせるので、当然ラクはラクなのだが、手取り11万円ほどだ。余計な飲み食いをしたり、旅行に行ったりはできない。とにかくヒマになった。ギリギリ暮らせるけど、標準と貧困のあいだで呼吸をしていた。僕は23歳だった。
バンドはちんたら活動していたせいで、2010年に上京したのに2010年に解散することが決まっているという中々エモい状況だった。まさしく東京に秒殺されたという感じがした。
僕は「次のこと」を考えないとならなかった。
2011年の秋から始動するQOOLANDというバンドの準備をしながら、延々と西口のブックファーストで立ち読みをしていた。「立ち読み」という表現は正確ではない。当時、ブックファーストには椅子が設置されており、なんと図書室のように商品を読むことができたのだ。
時間だけはあるので、実用書を読みまくっていた。
厚かましくも座って、だらだら読んでいた。生まれて初めて「勉強」をした。
学校で習う内容と比べると、悶えるほど面白かった。脳科学、心理学、経済学、宗教学、マーケティング、芸能。
たくさん読むと読み方も上手になってきた。
たとえば山田ズーニーさんの『あなたの話はなぜ「通じない」のか』という本があったが、内容はコミュニケーションのノウハウが書かれている。コミュ障という言葉があるが、そもそもコミュニケーション能力は後天的に身につけるものだという考え方を教えてくれている。
これを僕は「音楽の伝え方」というふうに読んでいた。「伝わる音楽」というものを考え始めた頃だった。結局、表現は伝わらないと仕方がない。自己満足もいいのだが、伝えたいならばなるべく誤解なく届けたい。
この「伝える」ということについて考え始めた時期だったが、あの本を読んでいなかったら今まで音楽を続けてはいられていない。
いろんな分野で気合いを入れてきたひとたちの言葉が書籍には詰まっていた。
文科省の定めた内容にはない主張があった。
「これおもろいやろ」とページそのものが絶叫しているようだった。
「大人になってからも勉強しなさい」というお題目がある。うざったい限りなのだが、生きていく上で有利になることは確かだ。
「情報を制する者」はあらゆる戦いにおいて強い。
まったく勉強しないと、情報戦で負ける。心の持ち方なども、知ると知らないじゃタフさが全然変わってくる。
読書の破壊力はまだまだ過小評価されている。
もちろん読むだけでは何も起きないが、どうせ何かに挑戦するならば、読んでからやったほうがいい。
異端に思われたり、周りから反対されるようなことに対する盾にもなる。
僕はバンドをやっているがCDを配布し続けている。先月一万枚に達した。150万円近い支出になった。
「やめたほうがいい」という声は身の回りから飛んでくる。こうなるとビビるのが普通だ。「俺、間違ってんのかな…」と不安になる。
そんなとき自分の背中を押した、行動を促した、勇気をもらった一冊が心を守ってくれる。
「野次馬どもは反対してくるけど、あの本に書かれている内容を知らないで言ってるんだもんな」と情報の密度が攻撃を届かせないのだ。
流されやすいひとは本を読んでおくと自衛になる。
「出版物」という根拠の塊のようなものに守られているような気さえしてくる。
価値観の合わない人間ともうまくやっていけるようにもなる。
書店のアイテム数は尋常ではない。ズラッと並んだ様々な本を見ると、考え方は多様であり、定義付けられる正しさなんて存在しないことがよく分かる。
それらに触れると、「ひとはひと。彼は彼」という分離感が生まれてくる。
違うことが書かれているから、どちらかが不正解という話にもならない。正解の数などいくつあってもいい。
二ヶ月ほど毎日ブックファーストに居座り続けた。邪魔だったと思う。あの二ヶ月がなければ、僕はとっくに大阪に帰っていると思う。