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酔った自分は自分なのか?

僕はアルコール依存性の本を発売し、映画化されるという生粋きっすいの飲んだくれである。

合法違法の線を取っ払って考えると、脳を異常化させ精神を変容に導く物質という意味合いでは、酒は紛れもなくドラッグである。コーヒーもマリファナもシャブも同列化される。

薬物依存から回復する薬があるが、これも精神に作用をもたらすので、落ち込んだ気分を回復させたり、異様なハイテンションを整えたり、眠くなったりしたりとさまざまな働きがある。

体感として、薬を飲むことで人生の難易度は下がる。

これらをしばらく飲んでいなかったので再び飲んでみた。一度止めていたせいか、以前より薬効の影響下にある気がする。なんというか「効いてる」感じがするのだ。

その中にレグテクトという飲酒欲求を下げる薬があるが、これは脳内物質のバランスをとることで飲酒欲求を弱めることができるアル中必携の品だ。

そもそもなぜひとは依存するまで飲酒してしまうのだろうか。一つの要因に「興奮と抑制」がある。

グルタミン酸という興奮に関わる物質と、GABAという抑制に関わる二つの物質があるのだが、大量飲酒すると、グルタミン酸の作用が弱まり、反対にGABAの作用が強まる。これにより脳の機能が抑制されるようになるのが、いわゆる「酔っ払う」メカニズムだ。

日常的に節度なく飲み続けていると、普通の酔い方から段階を経て、変わってくる。
グルタミン酸の作用が弱いままキープされてしまうのだ。すると脳は正常化を図るため、グルタミン酸の作用を強くするようになる。

アル中になると、飲酒時にグルタミン酸が出まくる脳みそが完成する。この結果、正常時とのバランスを保てなくなる。こうなると「酒飲みたい」「酔いたい」という念慮が離れなくなる。

レグテクトにはこのグルタミン酸を抑える効果がある。

とまぁ、アルコール依存の理屈を書くとこうなのだけど、僕のようなアル中からすると、レグテクトを飲むと「人格が変わった」ような感覚に陥る。

これは「酔い」がある程度、自分の人格の一部になっており、アイデンティティの一部を肩代わりしてしまっているからだと思う。

哲学者の永井玲衣先生がTwitterに面白い投稿をしていた。

「酔った自分は自分なのか?」という良い問い。果たしてどうなのだろう。

もしもあなたが「まぁ酔った自分も自分だよね!」と答えるとしたら、暮らしの中から「酔い」を除去する行為は、その特定の「酔った自分」をこの世から消してしまうことになる。

もちろん「酔った自分」は危険でもある。

それこそ二日酔いで昼の社会生活が送れなくなったり、暴力沙汰を起こしたり、衝動的に自殺してしまうことも考えられる。このような知り合いが何人かいた。

ジキルとハイドを始めとした乖離性同一性障害かいりせいどういつせいしょうがい、いわゆる二重人格のフィクションがあるが、あれに似ている。
元々は優しい心の持ち主だけど、もう片方の人格は残虐で、その残虐サイドの人格にいつのまにか優しい人格までもが乗っ取られてしまうというストーリーだ。

「酔った自分」に「シラフの社会生活を送る自分」が殺されてしまう例は無数にある。
「昨日飲みすぎて、今日やりたいことができなかった」というのも「飲み会で調子こきすぎて会社で気まずい」というのも、酔った人格が短期的に昼の暮らしを殺しているということになる。

その成れの果て、もしくはそうなる寸前、あるいは週に数回そうなる連中がアル中病棟にはゴロゴロいる。

僕の通う病院には家族や上司に連れてこられて治療されているような患者が多い。
患者共は首根っこを掴まれ、「こいつの酔った人格を殺してください。シラフのこいつだけ残してください」と懇願され、ヘラヘラと申し訳なさそうにしている。じつに腹立たしいことだろう。

『残虐な人格を抹消しないと、マトモな人格が生きていけないならば殺さないといけない』とされている。これがアルコール依存の現場で使われている不文律だ。

「酔った自分」を殺すため、レグテクトを投薬しているひとが日本には約8万人いる。

アルコール依存患者の推計109万人(実際はもっと多い)に対して少なすぎる数だ。実に0.07%しかまともに治療しようとしていないと言える。
つまり「薬飲まんかい」と言われて断る患者が多いのだ。別の病気で考えたら理解不能である。

思うにここには何かしらの「郷愁きょうしゅう」があるのではないだろうか。「酔った自分」は危険なのだが、それもまた自分、もしくは自分の一部なのだ。

「酔った自分」が医者からも社会からも家族からも、果ては自分からも焼却されそうになる、酔っ払って無敵感に包まれた自分はこの世に不要だと世界から突き落とされようとしている、その合理性にやられてしまいそうになるのではないだろうか。

「酔った自分」は飼えないから捨てなくてはいけない子犬に近い。保健所に送られる動物、リストラされる社員、戦力外通告を受ける野球選手、棚から捨てられる本にも思えてくる。

そいつのことを自分自身は嫌いじゃないのだが、殺さないといけないのだ。この心苦しさの奥底にはグルタミン酸のバランス問題とは別の次元の倫理がある。

アル中共は病院に行き、アルコールも断たないといけないことは分かっているのだが、「酔った自分」を殺す覚悟ができていないことが多い。「闘病」という言葉が非常に似合わない病気だと改めて思う。そして今日も僕は0.7%に入閣できている優越感にひたりながらレグテクトをパカパカ飲んでいる。

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