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「ちゃんと言ったのに」なんて言い草が通じるほど世の中ゆるくない

終わることと続けることはどちらが大変なのだろう。圧倒的に後者ではないだろうか。

結局、続けていくことは苦痛だしドラマもないし、ピークもない。ただただそこにあるものが延長されていき、「生きる」ということが恐縮される。「日々」よりも「葬儀」のほうが誰かの心を動かせるし、ふつうのライブよりも解散ライブのほうが沸きまくる。

こんなシンプルなことも文章にしておきたい。この「テキスト化する」というのは最強の整頓方法だ。

こういったブログ、note、日記みたいなものを10代から始めておけば、あんなに苦しい20代を送らなくても良かったのではないかとすら思う。

整頓されているかされていないかで、生きる苦しさは半減する。苦しみの要因や本質に触ることができるからだ。

テキスト化には「喋る」では手の届かない位置まで届く。そんな丁寧さがある。

文字はコミュニケーションであり、通信手段なので、「第三者にも伝わるようにする」がゴールだ。目的は国語として完成させることではなくて、心を通わせることにある。

「喋る」の目的も「国語ではなくて心を通わせる」なのだが、口頭よりテキストのほうが整頓の次元が高い。

「ちゃんと言ったのに」や「自分がわかればそれでいい」なんて言い草が通じるほど世の中ゆるくもない。

独りよがりはしっかり迫害されるし、スベる。まともなメールやLINEができる人間はそれだけで「信用できそう」と思われる。

もう僕も「自分が分かればそれでいい」と言えるほど幼くもなければ浅くもない。

「誰かのために何かをしたい」が活力になるときがある。「誰かに伝えるために書く」というのはLINEやメールでも同じだと思う。

このnoteは受け手のリアクション皆無のLINEだ。それでも書き続けている。

「自分のためだけに生きる」なんてなかなかできない。喜ぶひとがいるから、人間をやれている。

この「誰かを喜ばせたい」という欲望は何なのだろうか。「奉仕の精神、役に立ちたい」などと言うと偽善丸出しであるが、自分が善人ではないという自覚はある。

もはやシンプルな支配欲、征服欲なのかとさえ思う。

僕たちオスは、自分のコミュニティを自分の力で維持したり、ナルシスティックに酔いしれる側面がある。

しかし支えたり、築いたりする立場になると、滅ぼす立場にもなり得る。
もちろん壊滅なんて、大したことでもない。むしろ支えたり、続けていく方がずっとつらい。滅びるときなんてラクなものだ。

たとえば解散ライブなんて、何一つ傷付かなかった。誰しも滅びに逃げたくなる日もある。

だが何度も大切なものを滅ぼした人間として、なるべく「滅びの呪文」の魔力に取り憑かれないようにしたい。滅びるラクさは甘ったるく魅惑的なのだが、とても簡単で味気ない。


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