空腹の対応策が食事しかないと思ってる人多すぎ
事実から解決策は導けない。
人間はいろんな答えがあるのにヤバイ道を選んでしまうことがある。視野が狭くなるというやつだ。
『一年』というのは存外長く、365日あり、8760もの一時間が用意されている。そりゃ気分も変わるし、調子も状態も景気もコロコロ変わる。
「何一ついい事ないので今死にたい」と200回ぐらいは思った気がするし、10回ぐらいは「生きてて良かった」という手触りもあったように思う。
これは知らない誰かの話だが、「来年のこの時期も生きていたい!」と2021年の大晦日に拳を上げていたけど、もうこの世にいないひともいるのだ。去年の今いたのに、いなくなったひとがいる。毎年、知らないどこかの誰かの喪中になってしまうクセが抜けない。
でもそんなピンチのときこそ、「事実」に対して盲目にならないようにしていたいのだ。
金が無かろうが、腕が消しとぼうが、家を失おうが、解決策なんて無数にある。「金が無い」という「事実」に目を奪われると、「はたらく」以外に視点がいかなくなるし、「空腹」という「事実」に目を奪われると、「食べる」以外に目がいかなくなる。
「これ以外の対処法がない」といったような、狭くなった視野はいつか日々を苦しくさせる。
当為と呼ばれる言葉がある。「事実から当為は直接導けない」という意味合いで使う。
どういうことかと言うと、たとえば「偏差値の低い子は犯罪率が高くなる傾向が見られた。だから前持って、学力を上げるために授業の時間を長くする」みたいな論法だ。これは事実から当為を導いた典型的な破綻状態だ。
これ、じつは論理的なつながりがまるでない。「授業時間延長❗️」につなげるのは、じつは論理破綻している。
なぜならその論法なら先生の面接の倍率を上げたり、教科書の内容を変更する理屈も成り立つからだ。
残酷な例えをいくなら、「偏差値の低い子どもは全員殺そう」となっても論理上おかしくなくなる。ある事実から「当為」だけを導くことなど不可能なのだ。
まだある。
二つめは「事実というものは存在せず、あるのは解釈だけ」というニーチェの言い草に沿ってしまうからだ。
もしかしたら犯罪率は偏差値じゃなく、生まれつきの脳の性質の方が大きいかもしれない。反対に「偏差値が低い」という特徴は天才の要素かもしれないし、年収が反比例して高いかもしれない。にも関わらず、「偏差値が低ければ犯罪者予備軍だ」という理屈は乱暴だ。
またまだある。
三つめは「犯罪者脳」とカテゴライズされたひとの欲望をまったく加味していないことだ。
「授業なんて長くしたくない」という気持ちを無視して、「お前らはヤバイんだからいじくらなきゃいけないんだ」という主張。これはかなり危険な思想だ。
人類はこのような論法を使って、大きな過ちをしてきた。
ユダヤ人は虐殺されたし、障害者は優生思想者の決めつけにより、出産が認められなかった時代がある。書くもおぞましい文化人類史の一つだ。
しかしこれほどひどいことはなくても実社会では似たような当為がよく飛び交う
・最近の若いやつは気合いが足りない。若い頃から多少理不尽を味わったほうがいい
・飲酒運転による死亡事故が増えている。もっと飲酒運転を厳罰化すべきだ
・国民は自粛できない。緊急事態宣言発令で、さらに要請を強めるべきだ
こんなのは数え上げればキリがない。「べし」や「べき」というのは視野が狭くなる。全然「べかない」で人間は生きていけるはずだ。
会社はハートのケアに力を入れたっていいし、アルコールを検知してエンジンがかからなくなる運転席の車が発明されてもいいし、新たな薬の研究が進んだっていい。
事実から当為は直接導けない、ということを重々肝に銘じておきたい。
事態に窮してしまい、「どれかひとつの答えしかない」なんて発想になってしまいそうな日がある。対処法はじつは無数に散らばっているし、そこには夢も希望もある。そして良くなっていく道筋こそ気付きにくいものだったりもする。
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