いろんなひと!

「いろんなひとがいるのよ。気に入らないひととも仲良くしなきゃいけないのよ」と教えられてきた。

「協調性をとにかく優先せよ!」で育てられてきた。学校に、親に、世間に。

しかし僕は「気に入ったひととだけ付き合うといい」と思ってやってきた。ガキの頃からだ。その信念は年々確信に近づいている。

もちろん気に入らないひとも生きていたら出会う。「同じ空間にソリの合わないひとが存在する」なんて当然のことだ。この不快感からは避けられない。

それならば、嫌いなひととはうわべだけのコミュニケーションでいいのだ。

無理に合わせる必要もないけど、無理にケンカを売る必要もない。その距離感は決して諦めではない。

苦しんでまで、合わないひとと付き合わなくてもいいではないか。これは人間関係だけではなく、環境も同じだ。嫌な環境にいなくたって生きていける。時代が、テクノロジーがどこにだって行けるようにしてくれた。

学校も仕事も無理ならば適合する必要もないし、辞めた方がいい。

根幹的に疑いだしたら、何もかもポジティブじゃなくなる。もちろんその辞めた後のツケを清算する責任はあるが、そんなもの何とかなる。

どこまでいっても僕たち人間は感情の生き物だ。

嫌なひとからの助言はスルスルと受け入れられない。「すべてのひとに対してリスペクト」なんて不可能だ。仕方ない。

「リスペクトしていないひと」がいるから「リスペクトしているひと」が存在するのだ。

ならばリスペクトしていないひとや場所、「リスペクトしている人間のリスペクトできない行動」からは遠ざかるのが礼儀だ。

もちろん嫌な場所を我慢する恩恵はある。

ムカつくひとから救出できることはある。誰からでも、後々使える知識やテクニックを授かったりする。

でも積極的に嫌なひとへと、アドバイスをもらいにいく必要はない。「遮断したっていいのでは?」とさえ思う。嫌な上司の言うことなんて聞けなくて当然だ。

すると彼らは言う。

「ひとの話を聞かないといけない」や「ダメなところは指摘してもらわないと成長しない」と振りかざす。

嫌いなひとにおけるそれらは、もはや正解ではない。

なぜなら「嫌いなひと」は意欲を削ぐからだ。「意欲を削ぐひと」というのは確実にいる。

助言が欲しいときは、あなたのことを大切にしてくれているひとからもらえばいい。

あなたをぞんざいに扱うひとからのアドバイスなんて無くたって、高い成果を出すことはできる。

「ひとの話を素直に聞けないやつはだめだ」というロジックは、聞く側が自分を戒める時に使えばいい。言う側が自分の話を聞いてもらうために使うのは脅迫だ。

「このままじゃダメになる」という未来を絶望視させる言葉は十分に怖い。

僕たち人間は社会に支えられて、隣りと助け合い生きている。だがあなたを踏みにじるのもまた社会だ。

威張っちゃいけないし、ナメられちゃいけない。

いくつになってもそれを教えてくれたひとの言葉で動いている。これもまた、僕があのひとのことをリスペクトしていたからだろう。

音楽を作って歌っています!文章も毎日書きます! サポートしてくれたら嬉しいです! がんばって生きます!