善意! 善意! 善意!

善意があれば悪意もある。

多くのひとが善意は好きで、悪意はキライだろう。だけど、ときに善意というものは悪意よりタチが悪い。

悪意の排除は簡単だけど、善意の排除は難しいからだ。

分かりやすく言うと「アンタのためを思って言ってやってんのよー!」というセリフはウザイということだ。

しかし問題は、言っている本人が心の底から良かれと思っていることだ。

大なり小なりだけど「善意の押し売り」なるものは、世の中にしばしば発生している。

僕は小さいとき神戸に住んでいた。そこで大きな地震を食らった。

家のガラスは割れて、タンスが全部倒れた。
食器は散乱して、机もひっくり返った。まるで巨人が家を逆さにしたみたいだった。

街に出るとコンクリートはチーズみたいに裂けて、煙は遠くの空からいつまで消えなかった。空はずっと焚き火の匂いがしたままだった。

「神戸の街は10年は戻らない」と言われるほど甚大な被害を負い、街全体が暗いムードになった。これは今から20年以上も前の出来事だ。

その年は地下鉄サリン事件が起きて、イチローさんがプロ野球界に現れて、ドラゴンボールの連載が終わった。

神戸の街は、しばらく震災でいっぱいいっぱいだった。

年端もいかないクソガキだった僕でも、大人たちが死ぬほど困っていることは分かった。

ある日、東京から中学生、高校生がボランティアにやってきた。

六歳の僕にとって、中高生はとても大きく見えて、子どもより大人に近い存在だった。「子ども」よりも「若者」ぐらいに感じていた。

その学校では「人助けの心」みたいなものを学ばせたかったのかもしれない。震災はそういう意味では便利なイベントだ。

しかし被災者サイドから言わせてもらうと、正直邪魔だった。

結局、何もしなかったり、そのくせ場所を取るからだ。もちろん、一部のひとがそうだっただけかもしれない。

だが他の区でもガレキの前で記念撮影をしたり、避難所で騒ぐ学生が後を絶えなかったと聞く。

「自己満足的な善意で被災地を訪れることが、必ずしも正義じゃないんじゃないすか?」などと口にできるほど、僕の知能は発達していなかった。だけど、なんだか違和感を感じていた。

「これ、ちがくね?」といった非論理的な七歳なりのノイズだった。

先生たちも、『感謝』や『感動』を求めている傾向が強かったように思う。

それを言うと「違う!困ってるひとを助けるのは素晴らしいことだ!」と、世間からは返ってくるのだろう。

しかしそういう「善意」みたいなものって、「なんとなく」伝わってくるものではないだろうか。

少なくとも、ヨソの中学生とわけのわからん「復活のうた」のようなキモイものを歌わされたり、黙祷の乱発を強制されて、ねつ造される性質のものではない。

「ひとの好意を悪く言うなんて!」とPTAみたいなババアに怒られるのかもしれない。

しかし、あのとき神戸に必要だったのは善意よりも成果だった。

得体の知れない好意なんかより、神戸には水が必要だったし、もっと休むスペースが欲しかった。

「善意でやってもらっていること」に僕たちも支えられているときもあるし、ひとに善意を差し出すときもある。

それが悪いなんてことは無い。

ただ使い方を誤ると「善意」は「ありがた迷惑」に変形してしまう。

「使うときは見返りを求めずに。頂くときは過剰にアテにしないように」がいい距離感なのだ。

難しい距離だ。おそらく、学校なんかが使えるようなものではないのだ。

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