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余裕がある人を目指す!

今日は高田馬場phaseにて。今月4本目のライブ。余裕がない。

余裕がある人はかっこいい。

大阪に住んでいた頃、僕のミスのせいで降格させられてしまった上司がいた。原因である僕を責めるそともなく、そのひとは「こういうのも俺の仕事なんだよ」と言っていたときに痛感した。余裕=かっこいいのだ。

その上司は抜群に頭も良くて身体も強靭なゴリラだったので、「どうなっても俺なら大丈夫だろう」という自信があったのだと思う。

そこから数年後、そのひとはNo1キャバ嬢と結婚した。それを見て僕は「こうなりたい」と心から思ったのを覚えている。「やはり余裕のある男はモテるのだなぁ」と憧れに包まれた。

反対にこれまで見てきたDV男や借金王、犯罪者予備軍に痴漢、アル中たちは共通して余裕がなかった。切迫そのものだったと言える。

窮地に立たされているのに、とにかくできない理由を探しまくり、建設的思考をしないという、極めて逆説的な性格をしていた。

しかし「余裕」とは一体なんだろう。

切迫していない、あわてない、腹が座っている。そのような様子なのだろうが、あの頃はその全貌がイマイチ分からなかった。

おぼろげながらシルエットぐらいなら見えてきた今日この頃であるが、余裕とはきっと「根拠のある自信と、根拠の無い自信の混合物」なのだ。

実績による自信&根拠のない「俺ならいける」という自信のミックスが、その風格を作り出すのではなかろうか。

「やはり俺ならできた」という成功体験と「今回もできるだろう」がほどよく混じり合っているひとには独特のオーラがある。

そしてこの「本物の余裕」と似て非なるものがある。

「余裕しゃくしゃく」だ。ここには劇的な開きがある。あなたの周りにもいるであろう「何をのんべんだらりとしているのだ」と言いたくなる男だ。

ガチにならず、自問も無く、それでも「エヘヘ何とかなるっしょ」というように甘ったれつつ、自身への厳しさが1ミリも無くなったとき、僕たちは「余裕しゃくしゃく」になる。

「今回も何とかなるだろう」の質が全く違うのだ。

「前回も自分の力で切り抜けたからいけるはず」と考えるひとと「誰か何とかしてくれる」や「何もしなくてもなるようになる」と考えるひととの間には、ベルリンの壁より高い壁がそびえ立っている。

後者のように責任感も使命感も欠如してしまうと、考えも行動もしなくなっていく。

もちろん数字や納期、稼ぐこと全般にむとんちゃくであるケースが多い。「清貧」なのではなく、「やる気が無い」のだ。金もない。こういう人間は謎の無駄遣いは過激にするからだ。

ここnoteに訪れるひとは女性が多いらしいが、あなたの彼氏が「余裕しゃくしゃく」だったら「おい」と言った方がいい。

「おい」に効果があるかどうか分からないが、要る。その「おい」が目覚めるキッカケになりもする。何も鳴らなければ、その人間に未来と可能性はない。

では僕のような「正しいレールの進路以外」を歩んできた人間の棲む海は「余裕しゃくしゃく君」だらけなのだろうか。

たとえばバンドマン、芸人、舞台、漫画家、デザイナー。

これをやってるだけで悪口を言われることもあるし、無条件に最下層扱いされもする。だけど、我々は我々で罪悪感を抱えていないわけじゃない。

同級生の影をまったく気にしないわけじゃない。
新卒で就職して、企業や社会に大切に育てられ、キチンと生きている友人に負い目が無かったわけでは全くないのだ。

バンドマンになるだけで一生に一度の「新卒生」なるブランドを失う。新卒至上主義である日本の企業体制の中でこのハンデはデカイ。

同級生が社会に歓迎されてスタートを切った頃、僕は「シフトの弱いフリーター」というカーストのボトムエリアからスタートを切ることになった。

だけど僕たち「レールから外れた族」の始まりはいつだってそこだ。どれだけ強くなっても大きくなっても、あの始まりは変えられない。

だからこそ「余裕しゃくしゃく」だった時間なんて一秒も無かった。「いつかは余裕を手に入れる」と息継ぎもできないで泳いでいた。

しかし、そのおかげであの頃の上司の持っていた余裕に近づいていた気はする。気のせいだろうか。かろうじて見えた背中は幻覚かもしれない。

でも変にしゃくしゃくしている男よりも、「俺なら何とかなる」と構えている方が、ずっとカッコイイはずなのだ。


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