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後輩に価格のことを「お金額」と言う男がいる

過剰敬語という熟語がある。二重、三重に言葉を敬語化した誤表現だ。反則国語だ。

たとえば「〇〇さまがいらっしゃられました」や「後ほどメールで送らさせていただきます」などが当てはまる。

このようなやりすぎた敬語はビジネスの現場でも時折り見られるし、街中では「ごいっしょに、ポテトはよろしかったでしょうか?」なんてものも日常的に飛び交っている。

これらに「日本語が乱れとる!こんなんじゃ日の本の国は終わりじゃ!」と怒る国語の先生もいるのかもしれない。
コンビニのレジで「娘を犯されでもしたのかな?」と思うほど爆ギレしている中年を見かけたこともある。「1,200円ちょうどお預かりしますぅ……じゃねーだろーが❗️」と殴りかからんばかりの勢いだった。

オッサンのおっしゃる通り「ちょうど」と「預かる」の組み合わせは正しくないので「預かる」ではなく「いただきます」とし、「1,200円ちょうどいただきます」と伝えるのが正解だ。

しかし僕はたまにこの過剰敬語が愛しくてたまらないときがある。

直属の後輩に価格のことを「お金額きんがく」と言う男がいるのだが、今日はこの人物の話をしたい。

正直、「お金額きんがく」と連発されるとたまらないほど強烈にクるのだが、慣れてくると気持ちいい。もう二年ほどやられているので脳が痺れてしまったのか、最近はもはや「金額」と言うひとを見ると失礼に感じるようになってしまった。

過剰敬語とはリスペクトがオーバーヒートした状態だ。

「言語」というのはそもそも通信手段であり、ただの記号にすぎない。敬語はその記号に装飾を加え、伝え手の気持ちを届けるためのじつに人間らしい工夫だ。料理で言うところの盛り付けであり、プレゼントで言うところの包装にあたる。相手が受け取るのは内容だけではなく、それをまとうものもひっくるめてなのだ。

「お金額きんがく」という新たな日本語はたしかに聞き馴染みがない。

これは他の過剰敬語にも言えるが、言葉の使用の無知なんかよりも、不自然さを犠牲にして、相手にリスペクトを見せようとする力技なのだ。

「『言葉のルール、正しさ』なんて何の役にも立たないものは踏みにじってもかまわないっす、笑われたっていい。俺はあなたに誠実なんす、こんな言葉は負荷を負えばいいんす」という激しい生命力を感じざるを得ない。

時代が令和を名乗るようになって、よく分からなくなってしまった言葉もある。

たとえば「緊急事態宣言」の緊急性は分からないし、スマートフォンは歩きスマホや犯罪に使われまくりすぎて全然スマートじゃなくなった。

その実態を表すため、名は体を表すために言葉というのはあるのだと思う。

人類はありえないほどヤバいから「有難うございます」と手を合わせるようになった。
「それでは」という接続詞だったのが、いつしか変形して「さようなら」と人々は手を振るようになった。
そして価格のことをオブラートに包むために「お金額きんがく」と呼ぶようになった。

他者に現金をそのまま渡すことは少ない。お年玉でもライブのギャラでも封筒やら袋やらに入っている。「おいくらかお包みする」なんて直接的表現をぼかした美しい日本語もある。

すっかり「金額!」なんて言うとどうにもぶっきらぼうに感じてしまう。失礼に感じるときもある。僕も数回に一度は「お金額きんがく」と言うことがある。完全にバグらされた。

だけどこういう小さな感動が連鎖して、人類は流行はやりの芽吹きや狂い咲きに翻弄されてきたのだ。

後輩はたしか横のことを「およこ」とも言っていた気がする。これは何を敬っているのか皆目見当がつかない。


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