見出し画像

コミュニケーション能力の本質

「コミュニケーション能力とは何ぞや?」と考え続けている。もう10年以上考えている。

「コミュ障」なんて言葉があるけれど、ウェイウェイ騒げたり、誰かれかまわず仲良くできる能力は、コミュニケーション能力なのだろうか。じつは違うんじゃないだろうか。

学生と話すことがたまにあるが、10代の指す「コミュニケーション能力」と社会で使う「コミュニケーション能力」には大きな違いがあると感じる。果てしてコミュニケーションの本質はなんだろう。

それは「伝わる」と「伝える」だ。

話せばいい、見せればいい、聞かせればいい。では足りないのだ。なぜならそれでは他人は動かないからだ。伝わらないと意味がないし、ひとは「伝わった」ときにようやく動く。

コミュニケーションの難しさはこの「伝えること」だと思う。この「伝達力」が不足していると「何を言っているのか分からんやつ」になってしまう。

反対に「伝わる」の本質が分かっていると、あらゆるシーンで成果がでる。

教師、営業、作家、音楽、お笑い、エンジニア。

全部そうだ。伝わって、相手が初めて動く。優れた表現者が尊敬を集めるのはその影響力ゆえんだ。

コミュニケーションに関して、ムチャクチャ大切でなおかつ学校が教えてくれない真実がある。

「『伝わる』のは相手が聞きたい話だけ」という事実だ。これを知っていると、ひととの対話が画期的に楽になるのに、必修科目に含まれていない。

古代ローマの学者、ユリウスが言うように、人間は「自分が見たい」と欲するものしか見えない。むりやり見せようとすると反発を生む。

あなたのまわりに「何を言っても伝わらないひと」がいると思う。誰かからすると、あなたもそうだし、僕もそうなのだ。ひとは自分の聞きたいことしか聞こえない。

あなたが、その話をして「伝わらない」のなら、それはそのひとが「聞きたくないこと」なのだ。それか聞きたくない言い草になっているかだ。

そんな「何を言っても伝わらないひと」に対しては時間をかけないといけない。「むりやり聞かせる」という手段はパフォーマンスを落とすか何かが破滅するだけだ。

そしてコミュニケーションは感情抜きでも伝わらない。これは「論理によって話は伝わらない」と言い換えもできる。ロジックによって伝わるひとは稀だ。理屈に期待してはいけない。

数学者よりも音楽家の方が表現に秀でているのと同様だ。先生よりもパンクロックから何かを教わるのだ。

つまり伝えたいことがあるときは、説得しても無駄なのだ。説得に効果は無い。感情を揺さぶる何かが無いと伝わらない。

そして「誰に言われたか」をひとは重視しているということだ。同じことを言ったのでも、あなたとYAZAWAが言うのとでは、あなたとイチローが言うのとでは、異なる影響力がある。

CMに芸能人が起用されるのはこのためだし、有名人本が売れるのはこのためだ。したがって、自分が変わっていかなくては影響力は強くならない。

もちろんそれが待てないときもある。自分が表現しても「伝わらない」ときは誰かに言ってもらうのも手だ。

そういう意味では「ちょっと、センパイ!やすしのやつにガツンと言ってやってくださいよー!」などのチクリという手段は理にかなっている。

やすしもあなたの話は聞かないが、センパイの話なら聞くのだ。やすしのことはムカつくかもしれないが、感情の生き物である人間にはそういう一端がある。

「コミュニケーションとは何ぞや?」という問いに答えはない。でも強いて言うなら、「相手のことを考え、思いやる姿勢」のことではないだろうか。「自分の言いたいことを喋るだけ」というレベルの表現はどうにも届かない。ライブも作詩もブログも同じなのかもしれない。


音楽を作って歌っています!文章も毎日書きます! サポートしてくれたら嬉しいです! がんばって生きます!