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ひとは一貫性に憧れる

「一貫性」に憧れる。
人間の大多数は言っていること、やっていることがコロコロ変わるよりも貫いている姿勢に引き寄せられるし、樹木の幹のように筋の通ったぶれない軸を信頼する。

ひとは「この前は命賭けるって言ってたけど、やっぱ賭けるんやめるわ」という言葉を聞くと、うそんと思うのだ。

やはり一貫性のない優柔不断な人間だと感じるし、何ならディベートの場で、相手がそれをしたら勝ちすら確信する。言論の一致性が無いということはそれだけ「弱さ」に繋がる。

「不変」にも憧れる。結局、俺のやっていることはここ二十年変わっていない。というのはどうにもかっこいい。

肉体が滅びても魂はそこで燃え続けているような永続性を感じるし、時代や環境が変わっても動かない考えには惹きつけられる。

それはきっと、人間がうつろいやすい存在だからだ。運命を誓いあった恋人たちは、あっけなく別れるし、優しかった親も豹変するし、自分自身も初心を忘れてしまうし、年齢を重ねてひとからどう見られるかがどうでもよくなってきて太る。

その反面、ひとは変わることが苦手でもある。仕事はやめられないし、ズルズルつるんでしまうし、いつまで経ってもものが捨てられない。

三年ぶりにQOOLANDでスタジオに入った。何千回と演奏した曲を平気で忘れていたりするし、かと思えば曲が始まれば思い出したりする。

慣れているのか慣れていないのか、面白いのか面白くないのか、懐かしいのか懐かしくないのかよく分からない。分かる必要もないし、割り切って言葉にできるようなものでもない。

五百本以上のライブ、それ以上の膨大な量の練習を何年間も重ねていた四人が集わなくなり、三年越しにまた当時の曲を合奏したが、あそこに浮かんでいた感覚は、お金がいくらあっても経験できない。

久しぶりに二十曲ぐらい合奏したわけだが、「変わってしまったこと」と「別に変わっていないもの」がそこにあった。でもやはり解散したバンドには解散するだけの「違い」もある。

僕もふだんは解散していないバンドをやっているわけだし、解散したバンドのプレイを担当した経験もない。やはり現役の活動中の母体にしかないエネルギーみたいなものがある。解散したときに失われるのか、年月をかけて徐々に目減りしていくのか分からない。

なのに果てしなく続けてきたキャリアのおかげで曲は案外、合わせられるし再現できてしまう。不思議な感覚である。

僕が続けてきた表現とこれからしていく表現はどうなっていくのだろうか。このままずっと同じように何かを作り、誰かに届けて「もっと多くに届けたい」と願いながら朽ち果てて死んでいくのだろうか。

それができたなら「一貫性」は間違いなくある。あるからなんだという話にもなるのだが。

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