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「禊(みそぎ)建築」をめざして

「建築をめざして」は、20世紀の巨匠ル・コルビュジェの名著だ。建築家なら誰でも一度は読んだであろう。私は大学時代に読んだ。
『禊建築をめざして』は、決してそのパロディーではない。マジメな話だ。
おじさんは、公務員としてはかなり適当だが、建築家としては意外とマジメだ。


やっぱり元気がない、「建築家」業界

 10年ほど前から中規模、大規模の木造建築が注目されて、いくつか実現している。大空間建築もあれば、都心に建つ超高層建築もある。建築雑誌に載っているほとんどの作品が木造のときもある。むしろ鉄筋コンクリートや鉄骨のほうが珍しい。中・大規模木造建築は、海外の方が進んでいるようだ。やはり地球環境問題、SDG'sに敏感な欧州(ノルウェー、フィンランド等)が進んでいる。日本の建築業界もその仲間入りをしようと頑張っている。
 ちょうど今から100年前に発生した関東大震災以降、世間から地震と火災に弱いと評価されてきた木造建築。それをいかにに大きく、高い建築物が<安全>に実現できるか競っているようだ。「木造は燃えやすく地震に弱い」という100年の呪縛からの開放が進んでいる。

 だが建築業界に元気がない。高度経済成長期に幼少期を過ごし、バブル経済後期に建築業界に飛び込んだおじさんの感想だが。バブルが弾けて経済が低迷しても、それでも今より元気があったような気がする。仕事がなくなったアトリエ建築家は、どこかの大学の非常勤講師になり、結構好きなことをやっていた。ん〜元気がないと感じてしまうのは、建築業界ではなく「建築家」業界なのかもしれない。

禊でひとは元気になれない 〜否めない禊感〜

 建築とは、自然の一部を利用する(=自然に負荷をかける)ことで得られる人間のためのモノだ。自然のためのモノではない。その関係性は古代から変わっていない。大学で建築学をかじった人であれば、みな知っている。近代に入りその負荷割合が大きくなった。現代、大きくなりすぎた負荷を「前向きに」「ポジティブに」「何かいいことやってる感満載で」低減しようと頑張っている。でも冷静に見れば「ごめん、ごめん、やりすぎちゃった」「反省しまーす」「これからちょっとづづ見直します」と侘びているわけでは? おじさんは、これを勝手に「禊建築」と読んでいる。雑誌「新建築」をみて「今月もいっぱいミソイデルな〜」とぼやいている。
 どんなにメデイアでうまく取り上げても「禊でひとは元気になれない」。

脱禊 〜再び「建築をめざして」〜

 では、どうすれば禊が完了するかイメージしてみた。
1.土地を使わない建築
2.日影をつくらない建築
3.大気(風)と地下水に影響しない建築
この3つが実現可能となったとき、晴れて人は禊を恐れず建築できるのではないだろうか?
 やや嫌味満載の表現となったが、言いたいことは、「建築物を木造とした程度で禊は終わらない」ということだ。にもかかわらず、ほとんどの建築家が宗教を崇拝するように「禊建築」を追いかけているような気がする。若手建築家が「おれ、安藤忠雄のようなコンクリートの箱をつくりたいっす!」と言うにはかなり勇気がいる時代だ。建築家もインスタやTwitterなどのSNSに縛られている時代。同調圧力は十分にかかっている。
だからみんな元気がないのかなぁ?

 実は、とっておきの脱禊のもう一つの選択肢がある。
4.「禊なんて知らねーよ」
すべての建築家がこうなっては問題だか、無用の心配だ。少なくても70年代80年代の建築家たちには、そういう人がいたような気がする。
だからみんな元気だったのかなぁ?

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