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鈍いルビー

「熊谷さん、いつも難しく考えすぎですよ。もっとシンプルに、わかりやすく考えてください。これだと何を伝えたいかわからないじゃないですか。」

ああ、まただ。自分だとそんなつもりはないのに。よく、上司にこう言われる。僕にはどうやら難しく色々と考えてしまう癖があるらしい。どうやって直したものか。もっとシンプルに。


26年も、なんていったら世の中の大半の人に笑われるかもしれないが、それなりの歳を生きていると、手元に色々増えているものだ。小さいと思って拾った石ころがいつの間にか巨大な岩になっていたり、ひょいとつまみ食いだったはずの道草がメインディッシュになっていたりする。それがいいときもあれば悪いときもある。

あっちにいったりこっちにいったり。思い返せば僕の人生は、そんなことばかりだった。地球を駆け回って広がった世界は、僕にたくさんのことを与えてくれたけれど、大切なものをどこかに落としてきてしまったようで、それがなんだったのかわからなくなった。

学生団体の代表をやっていたとき、よく途上国で活躍する社会人たちの話を聞きに行った。僕には彼らがヒーローに見えた。カッコいいおとなになりたかった。小学生のとき、ジャンプで一番先に読んでいたのはスケットダンス。人のためになることが、苦しい人を助けることがカッコいいんだと信じて疑わなかった。

学生の身分で途上国にいって、なにかできないかできないかと色々試行錯誤した。頑張って稼いだバイト代も、向こう見ずで借りた奨学金も、在学途中、国から貧困家庭に支給されるようになった補助費も、自分の時間も、僕は自分のためと信じて、途上国につぎ込んだ。それはもう、たくさん、たくさん。

得るものだってたくさんあった。異国の地で一人で孤独に戦った時間、自分で考えて自分で動いた経験、できそうにもない高い目標に向かって自分を奮い立たせること、とにかく行動すること、どれもこれも、自分の財産になっている。僕がいま歩んでいる道は、きっと正しい。

新卒1年目の7月。無理がたたって体を壊した。少し休んだら治ったから、僕はいつも通り忙しくした。いま、いいところなんだ。苦しいけどこの山を乗り越えたら、あのときできなかった人のためになることをできるようになるはずだから。

2年目。機会があって、僕はミャンマーの日系企業に出向することになった。学生の時から、羨望の眼差しを向けていた大人たちに、僕もなれる。行けばなれると思っていた僕は、もう本当に浅はかで、どうしようもない。

3年目。ミャンマーで丸々1年過ごした。ミャンマーに支店を建てる約束を自分の会社として、僕は帰ってきた。1年過ごしてわかったことは、僕はぜんぜん、どうしようもなさすぎるくらいひよっこで、行くだけでなにもできなかった学生のあの頃から少し良くなっただけ、ということだった。

スキルが足りない。どうやって考えたら、こんなふうに分析できるようになるのだろう、思考できるようになるのだろう。マインドも及ばない。クーデターにめちゃめちゃにされ、ほとんど破綻国家のこの国で、大手企業が続々撤退する中、それでもしがみつき、やり続ける日系企業の人たち。僕に、ここまでの覚悟があるのだろうか。わからない。だったら、やってみよう。大学に入ってから今日までの7年間、僕だって、途上国のためになろうと自分なりに頑張ってきたのだから。

ミャンマーでの事業を、社内の人に壁打ちしていた。事業立ち上げの支援をしている会社だから、みんな知見もたくさんあるし、この人たちなら答えを知っている。たくさん聞いて、前に進まないと。

「熊谷くんは、なんのためにこの事業を創りたいの?」

なんのためにって、それは途上国の人たちのために、現地の人の生活を支えるために。自分の捧げてきた7年間に報いるために。

「事業をやるのはいいけど、具体的に自分がサービスを届ける人たちにどうあってほしくて、どんな世界を創りたいのか、考えてみてごらん。じゃないと、事業って意味がなくなってしまうよ。」

どんな世界を創りたいのか。自分と同じように貧乏な人たちが、きちんと報われる社会に。チャンスを届けるために。

学生のときに足を運んだ公演の壇上から、どこかで読んだ誰かの記事が、頭の中で反響する。どこかで借りてきたような、誰が見ても、間違いとは思えないような、指のさされない、美辞麗句が。

何かが違う。これは僕の言葉じゃない。僕は本当に、この事業をやりたいと思っているのか?自分の人生を懸けて、やり抜く覚悟があるか?ミャンマーに残ったあの人たちのように、何もかも捧げることはできるのか?

「熊谷さん、難しく考えすぎですよ。シンプルに考えてください。」

上司に何度も言われてしっくりこなかった言葉が、するっと胸の奥に入ってくる。僕は、幸せなのか。これをやれば、幸せになるのか。他の誰でもなく、僕自身が。解くべき問いは、それだけだったと思う。もういつかわからないくらい昔に、どこかに落としてきてしまっていたけれど。

違う。これは僕の幸せじゃない。このまま歩み続ける人生は、きっとどこかで後悔を生む。大きくなりすぎてしまった石ころを小さく。随分遠くまで来てしまった道草を終わりに。僕は、いままでの人生で一番時間を取って、自分がやろうとしていることと自分の幸せを、考え直した。

昔から、仲の良い家庭に憧れていた。家族全員揃ってご飯を食べられて、大変なときは支え合って、休みの日にはみんなで出掛けて、たまに旅行をして。父親も母親も子どもも、喧嘩もするけどたくさん話して、仲が良い。大金持ちになろうってわけじゃないけれど、日常を小さな幸せで満たせて、不安は少し拭えるくらいのお金があって。僕が生まれ育った場所には、そのうちどれもなかったから。

カッコいいおとなになりたかった。仕事を楽しそうに、肩の力を抜いてラクに、でも結果は出せる人に。遊んでるみたいに仕事をするのに、しっかりやることはやって信頼を置かれる人は、すごくカッコいいと思っていた。楽しく仕事がしたかった。

難しいことなんて、何もなかった。誰かの言葉で着飾る必要も。壇上から語られることも、どこかの記事に載ることも絶対にない、人間臭くてたまらない僕の言葉。でも、それが正しい道だった。

幸せな家庭をつくることと、楽しく仕事をできるようになること。先のことはわからないけれど、今の僕にはその目標があれば楽しく、幸せに生きていけそうだった。


決断を下して、ミャンマー支店はやめることを関係者に説明して回った。何かを始めるよりも、やめるときのほうが殆どの場合つらくて苦しい。こんなどうしようもない僕を、皆さんは咎めることもなく、受け入れてくれた。自分と向き合いきれていなかった自分を責めて苦しくなるときもあったけれど、別の形で返せればきっと、良い。だから、僕は僕にこれからできることを、目の前のことに一生懸命向き合っていく。

付き合っていた彼女に婚約指輪を渡した。半月ほどしか付き合っていないのにと周囲から言われるけれど、僕は幸せな家庭をつくることが何よりも重要だと疑念なく思えたし、彼女とならそれができると確信していたから、形にして渡した。不安や懸念なんて考えればいくらでも思いつくけれど、それでもできると思えたのは、ミャンマーで働く皆さんの本物の覚悟を見れたから。

彼らのようにできるかはわからないけれど、僕は僕で、できることを目一杯、自分が本当に向かいたいと思うゴールに向かって精一杯を尽くしていきたいと思う。僕なりの決意と覚悟と、それを僕に渡してくれたあの国に感謝を込めて、ミャンマーで取れたルビーのついた指輪を渡した。

秋葉原の小さなジュエリーショップで、15種類くらいはあったルビーをどれにしようか暫く考えていた。なんでもこのお店は原石をそのまま使うタイプと、磨いて光らせるタイプの2つ用意をしているらしい。一生に一度渡すものだから、短気な僕にしては結構考えた。

間接照明に照らされてきらきら輝くルビーよりも、粗く鈍く静かに光るルビーのほうが僕にはきれいに見えた。少し落ち着いていて、丸くてごつごつした小さな未加工のルビーのついた指輪を選んだ。

僕が選んだものなのだから、彼女もきっと喜んでくれるだろうと甘い見立てを立てていたが、予想と寸分も違わず彼女は涙を流しながら喜んでくれた。

きっと、そういうことなのだろう。

これから僕は、他の誰でもなく僕の言葉で僕の人生を生きていく。誰かの言葉がどれほど光り輝いていても、鈍いルビーを選ぶ勇気を持てる人生を、覚悟と決意を持って歩めるように。



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