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ゲゲ謎を観た人こそ読んでほしい:『総員玉砕せよ!』『水木しげるのラバウル戦記』の感想(本の感想)


こんにちは。寒暖差のせいで今日も着る服を間違えた。とらつぐみです。

最近映画の感想が多いですが、今回は本の感想、水木しげる先生の『総員玉砕せよ!』『水木しげるのラバウル戦記』です。


↑『総員玉砕せよ!』は講談社文庫版の電子書籍を購入しました。


『水木しげるのラバウル戦記』はちくま文庫版を買いました。


『総員玉砕せよ!』は、太平洋戦争末期のニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)に上陸した陸軍の一隊が、連合国軍の攻撃を受けて全滅する様を、二等兵である「丸山」の視点で描かれる戦記マンガです。

一方でラバウル戦記は、戦後すぐと昭和60年頃に描かれたイラスト、従軍中のスケッチとそれに足された水木しげるの回顧録で構成されていて、従軍した水木しげるが南方の戦線に送られ、現地で終戦を迎えて日本に帰還するまでの体験が事細かに書かれています。

お恥ずかしながら、水木しげるの漫画は、鬼太郎以外に『悪魔くん』や『のんのんばあとオレ』など何作か読んだことがありますが、名作と言われている『総員玉砕せよ!』をこれまで読んだことがありませんでした。

理由としては、やはり「戦記マンガ」というものを読むことへの抵抗のようなものがあったように思います。太平洋戦争の頃の記憶、それも従軍していた人の壮絶な体験談、と言われても、身の回りで戦時中に従軍した人というのは私が生まれるだいぶ前に亡くなった曽祖父ぐらいで、ピンとくるものだろうか……

しかし実際(12/4の日記にも書きましたが映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を観たのをきっかけに)『総員玉砕せよ』を読んでみると、そのストーリーにどんどん引き込まれていきました。

従軍していた人、といっても、主人公である丸山からしても、呑気でマイペース、食べることが好きな「普通の人」です。その丸山が何が何やらわからないまま戦地にやってきて、いつの間にか決死の特攻を迫られる

戦争をテーマにしているので戦争の悲惨さがもちろん主題なのですが、激しい戦闘で人が酷い死を迎えることの辛さよりもむしろ、「なんでこんなことが起きたんだ……」という虚しさや憤りの方を強く感じました。

『総員玉砕せよ!』を一晩で一気読みした後、実際に水木先生が体験した戦争はどんなものだったのかと気になり、『水木しげるのラバウル戦記』も購入して読みました。

今回はその2作品を今更読んだ人間の(深い考察ができるわけではないので)、素朴な感想を綴っていこうと思います。気になっているけど同じように読むのを躊躇している人や、ゲゲ謎を観て水木しげる作品に興味を持った人の参考になればと思います。




人間らしさを奪っていった戦争――『総員玉砕せよ!』



・素朴な感想ということで(?)いきなりではありますが、まず、殺し合い云々の前に軍隊というものが聞いてた何倍も理不尽すぎる。

初年兵である丸山青年は舞台の中で1番の「下っ端」なので、あらゆる雑用でこき使われ、気に入らないことがあればひたすらビンタされます。

それだけならまだしも、後方で司令部がぬくぬくしているのと対照的に、最前線部隊の彼らは少ない食糧で飢えに苦しみ、敵がやって来る前にマラリアにバタバタ倒れていきます。

陸軍は基本食糧は現地調達(!)の上、いい食べ物は上官や古兵が持っていってしまうので、初年兵の丸山はいつもお腹を空かせています。

連合国軍が放棄した小屋で物資の山を見つけて喜び、取り合いになるというシーンがありますが、そのシーンだけで、敵側との圧倒的な物量差が実感させられてやるせない気持ちになります。

さらに、巨大な魚を捕ろうとして喉に詰まらせて死んだり、正月に食べる豚を取るため川を渡ろうとした時、突然隣にいた兵が消えたり(ワニに襲われた!?)と、ジャングルに潜む危険も兵の命を奪っていきます。そして迫り来る決戦の足音……

・一年早く軍に入っただけの兵でも初年兵をいじめているのを見ると、有名なスタンフォード監獄実験を思い出します。

閉鎖的な環境と役割、それに紐づいた「権限」を与えると、人は残酷なことを何でもできてしまう、ということを明らかにした実験ですが、兵士、上官、古兵という役割を与えられなければ彼らももとは「普通の人」のはずだったのです。

(現に作中でも、鬼のように厳しい軍曹にも、便所に足を突っ込んで靴をなくした丸山に代わりの靴をあげる優しさははあった、というシーンがあります。その丸山は軍曹のご飯にウ○コを混ぜ込んでいましたが……)

兵士たちが非人間的な状態に追い込まれていくのは、軍隊というもの自体の問題もあります。

連合国軍の襲撃を受けて丸山のいた部隊は総崩れになり、中隊長は「バンザイ突撃」を命じますが、一部の兵士は聖ジョージ岬に逃れ、生き延びます。

……いや、「生き残ってしまった」のです。

ラバウルにいる軍上層部は、玉砕(全滅)を発表したのに生き残ってしまった丸山たち兵士に「兵団自体の士気に関わる」といって、再び敵に突撃して死ぬことを命じます。

えっ、もう勝敗は決しているし兵士が生きていることで特に困ることはない(補給船に保護されたので捕虜にもなってない)のに、面子が兵士の生命より優先されるっていうんですか!?!?!?

「特攻」「決死の突撃」というのは、「命懸けで一矢報いる」ものとして美化されがち(現に戦時中は美化されていた)わけですが、実際に出された2度目の突撃命令は、有り体に言えば「死んだって発表しちゃったから死んで」という、なんとも無意味なものでした。

最初は呑気だった主人公の丸山も、1度目、2度目の突撃命令を受けてからは、「(悪い水を飲んで下痢になったって)どうでもいい、どうせ死ぬのだから」と弱音を吐くようになり、とうとう部隊は再突撃を行い、本当に全滅してしまいます。

個々人を見れば人間でも、「駒」としてカウントすれば簡単に「死ね」と言える。それも、軍事上意味がある訳でもなく(意味があれば言っていいわけではない)。

兵士を殺していたのは、敵というよりは非人間的な「軍隊」というものなのかもしれない、と思いました。



・さて、水木先生はあとがきで以下のように書いていました。

将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で兵隊というのは“人間”ではなく馬以下の生物と思われていたから、ぼくは、玉砕で生き残るというのは卑怯ではなく“人間”としての最後の抵抗ではなかったかと思う。

『総員玉砕せよ! 新装完全版』(講談社文庫)あとがきp360


玉砕という言葉はそもそも「全滅」をいいように言い換えた言葉なわけですから、玉砕で生き残ったのを「卑怯だ」というのはおかしいはずですが、戦時下で玉砕は「美談」とされ、「模範」として語られていました。

※作中で参謀が再突撃の前に敵の爆弾にやらたのを見て「これ以上兵を犬死にさせるわけには」と言っていますが、再突撃も爆弾にやられるのもどちらも「死」に変わりはなく、死に方に意味を見出して他人に死を強いること自体がおかしいですね……


バイエンを舞台にしたこの物語も「兵士たちの悲劇的な最期」とまとめてしまえば、場合によっては美談にいくらでもできてしまう危険を孕んでいます。

ですが作中で描かれる個々の兵士の人間臭さーー森で発見したバナナを穴に埋めて隠す丸山、ウ◯コに足を突っ込んでダメになった丸山に靴をくれた鬼軍曹、日本には帰れないだろうからと丸山に似顔絵を描くよう頼む中隊長などを見ると、決して美化できないな、と思うのです。

『総員玉砕せよ!』で描かれている兵士たちの人間臭い姿は、大義や美談、都合の良い言葉に丸め込まれてしまう「戦争」を「きちんと自分の目で見なさい」という作者のメッセージに思えてきます。

・21世紀の現在でも、戦争は過去のものではなくすぐそばで起きている事態です。また、「都合のいい言葉に丸め込まれ、人間が人間らしく生きられない状況に追い込まれる」事態は、何も戦場だけで起きているものではありません。

「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」の血液銀行の社長の台詞に、「(不死の妙薬Mを使うのは)企業の戦士たちだよ水木くん。戦争はまだ続いているのだよ」というのがありました。

「使い捨ての駒」とされた兵士たちと「経済発展のため(現代なら、「夢の実現のため」とかなんとかで)」というお題目のもと死ぬまで働かされる労働者。その構造は、何も変わっていないのかもしれません。



食べること、そして「生きる」こと――『水木しげるのラバウル戦記』



「総員玉砕せよ!」はあとがきや解説にも書いてありますが水木しげるが戦地での体験談をもとにしたフィクションです。

実際に水木氏が所属していた大隊には二度突撃命令が出されますが、戦いが起きることなく終戦を迎えたため二度目の突撃は実際は行われなかったそうです。また、当時水木氏はマラリアにかかって療養中で、一度目の突撃には参加してません(しかし、療養中に爆撃に遭い左腕を失っています)。

そんな水木氏が実際に戦場で見聞きしたこと、療養中や終戦後の捕虜生活での体験談が描かれている『水木しげるのラバウル戦記』の感想についても簡単ではありますが書いていきます。


・『総員玉砕せよ!』にも共通してはいますが、水木先生、敵への恐怖より食べ物への執着がすごい。食糧として採った椰子の実、パパイヤ、バナナに芋。現地人と物々交換で手に入れたモンキーバナナやパンの実。南方で食べたあらゆるものを覚えているんじゃないかというくらい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/パンノキ

↑パンの実、日本では全然見かけないがさつまいもみたいな味がするらしい。

個人的には、龍谷大学出の兵隊が哲学の話をするのを聞きながらパンの実を食べていたが、パンの実に夢中になりすぎて一人で5個も食べてしまい怒られた、という話が好き。そんなに美味しいのか……

https://delishkitchen.tv/articles/303

↑モンキーバナナはバナナの中でも小さくて甘味が強い品種。美味しそう。


先述のとおり、敵との交戦より飢えや病気がまず兵の尊厳を奪っていた戦地において、「食べる」という行為は、誰にも奪えない「生きもの」としての営みという面もあったのではないか、と思います。

生き生きと描写される現地の植物や食べ物の話を読むと、「食べる」ということはジャングルの危険や敵など、死と隣り合わせの戦場の中で生きる希望や元気を与えるものだったのでは、と思えてなりません。

(実際、マラリアを再発し朦朧としていた時に現地の子供が持ってきてくれたバナナやパイナップルを食べて元気を取り戻したという話があるように、栄養源としても重要だったのだろうが……)


・水木氏は、敵の攻撃を受け、敵側に協力する現地の人に追いかけられ、命からがら逃げる中でマラリアにかかってしまいます。ですがその後、女性酋長のイカリアンとトペトロという少年に出会い、現地の人の集落で時を過ごすうちに体が回復してきた、とありました。

軍の決まりでは用のないものは集落に入ってはいけない、という話ですが、水木氏は気にせず、現地の人の集落に出かけていきます。水木氏は自身のことを「独自の行動が多すぎてビンタの数が多かった」と書いていましたが、この「独自の行動」が結果的にマラリアや爆撃で受けた傷を癒したのかもしれません。

『水木しげるのラバウル戦記』は、壮絶な従軍体験であるはずがどこか力が抜けた文体で書かれています。

ですが実際、水木先生は「生きる」ことへの執着がすごかったのでは、と思います。でもそれこそ、「死」が賞賛される軍の中での一番の抵抗だったようにも思うのです。


「天国」を目指して



・二つの作品を読んで印象的だったのが、『総員玉砕せよ!』でも『水木しげるのラバウル戦記』でも、ニューブリテン島を「天国」と表現している箇所があったことです。

『総員玉砕せよ!』では冒頭、今度行く場所はパパイヤがたくさんある天国のような場所らしい、という会話から始まり、バイエンの美しい浜辺を背景に「ここは全員が天国にゆく場所だったのだ」という不穏な地の文が入ります。

パパイヤがたくさんある天国、という表現は『水木しげるのラバウル戦記』でも出てきていて、同じ話が最前線に向かう最中に出会った他部隊の気のいい古兵から聞いた、とあります。

実際バイエンはそれほどパパイヤがなっていなかったそうですが最前線に赴く最中「天国」という表現が出てくるのは興味深いです。

水木先生はまた、療養中仲良くなった現地の人たちを「自然とともに生きる人」と表現し、現地の人たちの社会を「上界」、軍隊や日本を「下界」と言っています。

女酋長イカリアンの家で食べ物をご馳走になり、畑を持たせてもらい、踊りの儀式に熱狂するーーそこで過ごした日々を本当に「天国」(作中では「夢の国」とあるのでユートピアに近い?)と思っていたのでしょう。

ここで思い出すのが、ゲゲゲの鬼太郎の主題歌の2番の歌詞「お化けは会社も仕事もなんにもない」です。仕事がないなんて、社畜の我々から見たら天国(笑)ですが、鬼太郎の住む自然の中で妖怪が暮らしている「ゲゲゲの森」は、ある種ユートピア的なものかもしれません。

漫画本編で鬼太郎は、人間界に出てきて悪事を働く妖怪や、時には欲深い人間を懲らしめたりしています。また、鬼太郎の腐れ縁、ねずみ男は人間界で欲深く生きながらも、どこか厭世的です。

人間と関わりながらも完全に人間には染まらない。それは人間社会を見つめる彼らの背後にユートピア=天国があり、達観しているからかもしれません。

『総員玉砕せよ!』や『水木しげるのラバウル戦記』に漂う、戦争をする人間の愚を描きながらも兵士の人間臭さも真摯に描くところ、厭世的になりながらもどこか明るい独特の感じは、鬼太郎にも通底しているように感じます。


水木作品が好きな人で、両作品をまだ読んでいない人がいれば、ぜひ読んでほしいです。また、ゲゲ謎をきっかけに鬼太郎にハマった人にもぜひ読んでほしい作品です。

(そしてあわよくば他の漫画やアニメに手を出して抜けられない沼にハマってほしい……)

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『のんのんばあとオレ』も面白いので未読の人いたらぜひ読んでください。べとべとさんがかわいい(とらつぐみ・鵺)