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夜のはざまとエクリプス(小説)


夜の色が薄まって、暗い空に白い陽の光がぼんやり浮かぶころ。

都会の夜の賑やかさは鳴りをひそめ、秋の朝の、ひやりとした空気が街を覆っていく。


下宿先のアパートを出た俺は一つ伸びをして、早朝の街へと出かけた。アパートは大学から少し離れた住宅地にあるが、10分ほど歩けば繫華街にも出られる好立地だ。

車通りの少ない路地を駆け抜ける。途中、自転車に乗ったお年寄りや、夜勤終わりなのか工場の制服を着た若い男性とすれ違う。

朝と夜が移り変わっていく、今はそんな時間帯だ。

住宅地をしばらく走ると、そこそこ大きい公園にたどり着く。芝生広場や水鳥がよく飛来する池がある公園で、外周には遊歩道が整備されている。

俺は外周に足を踏み入れる。10月も半ば、朝の公園を通り過ぎる風はかなり冷たく、俺はジャージの上から羽織った上着のジッパーを上げる。


俺――笠木ひなたの唯一といっていい趣味、それは早朝のランニングだ。

朝の5時前に起きて、公園の外周をゆっくりと走る。公園に植えられた植物や、昆虫や野鳥を横目に見ながら、20分ほどかけて外周を一周するのだ。

走り終えて公園の中に入ると、入り口そばには自販機と池に面したベンチがある。俺は息を整えながら自販機で炭酸水を買い、ベンチに座って一口飲む。心地よい炭酸の刺激が身体に染みわたる。

目の前の池では、つい最近北国からわたって来たばかりのカモたちが数十羽ほど、塊になって泳いでいる。

マガモにカルガモ、オナガガモ、ヒドリガモ、それぞれ雄雌のペアが何組かずつ。

毎朝のランニングの後、誰もいない公園で独り占めできるのが、この何でもない風景だ。

「お、今日も来てるな」


背後からそう言う声がした。振り向くと、同じ大学の三日月あおいがいた。パーカーにジーンズというラフな格好で、手にはコンビニの袋を持っている。

彼は――この朝の風景を一緒に見て過ごす、唯一の人間なのだ。



***
俺と蒼が出会ったのは、ちょうど1か月ほど前だ。


その時まで、いつも俺がランニングする時間帯に、公園で誰かと会うことなんて滅多になかった。

だから、灰色のパーカーを着た若い男が、大きなあくびをしながら池の前にやって来た時、珍しいな、と思って彼を見て、目が合ってしまった。


「あれ、君……たしか浪花大の子だよね!」

気さくな、というよりは少し馴れ馴れしい言い方に、俺は少し身構えた。男は鮮やかな金髪で、耳にいくつもピアスをつけていた。


「あれ? グループワークで一緒になったじゃん、水曜3限の『古典語への招待』」

そこまで言われて、俺は思い出した。彼は授業にいつも遅れて来て、真ん中くらいの席でしょっちゅう寝ている。

その割に、授業の終わりには、女子学生や同じく派手な見た目の男子学生たちに囲まれて楽しそうにしている。

地味で友達も少ない俺とは、別の世界の人間だと思っていた。


「ああ、そうなんだ。どうも」
俺のそっけない返答に、彼はにかっと笑顔を返した。彼は手にビニール袋を持っていて、何故か中から食パンを取り出した。

「このあたり、あんまり浪花大の子住んでないじゃん? だから知ってる人いて、なんか嬉しいな~って」


彼はそう言いながら、食パンを手に持って細かくちぎり始めた。まさかとは思ったが、このパンを池にいるカルガモにやるつもりのようだ。


この公園は、カモへの餌やり禁止だ。

けれど、と俺は記憶をたどる。昼間この公園で餌をやっていたおじさんに注意した女性が、ものすごい剣幕で怒鳴られていたのを見たことがある。

ほとんど初対面の人間に注意して、怪訝な目で見られないだろうか……


餌をやりたいわけじゃないのかもしれない、と俺は自分に言い聞かせ、彼の方をそっと見ていた。だが彼はちぎったパンの破片を手に握り、池の方に腕を伸ばす。やはり餌をやるつもりだ。

「あ、あの!」
俺は意を決して口を開いた。
「カモに餌をあげたいなら、やめておいた方がいいですよ。カモの……ためにならないんで」


蒼は細かくちぎったパンを手に持ったまま、きょとんとした顔になった。


「え、何で?」
「カモって、普段は何食べているか、知ってます?」
「……魚とか、水草とか?」


「そうです。そういうものを普段食べているカモが、パンを大量に食べると……喉に詰まらせる危険があるんですよ」
「そうなの!?」


「それに、パンばかり食べると栄養が偏ってしまって……奇形って分かりますかね? 翼の形が歪んでしまうカモもいるんですよ」
「そ……そうなんだ」


彼は素直に手に握ったパンの破片を袋にしまい、俺はほっと胸をなでおろした。


「教えてくれてありがとう! いや~、バイト先でもらった期限切れのパン、食べきれないからあげようって……あ、君、名前なんて言うの? 俺は三日月蒼っていうんだけど。経済学部の2年」


彼の勢いに、俺は目を白黒させた。
「文学部の……笠木陽って言います。竹かんむりに立つで『笠』に『木』、陽は太陽の『陽』」


自分で自分の名前を告げるたび、少しシニカルな気持ちになる。太陽の『陽』。俺はそんな明るい人間じゃないのに、と。

俺の考えなどつゆ知らず、蒼はからっとした、人当たりのいい笑顔を浮かべていた。


「陽くん、でいいのかな、2年生?」
「あ、はい、俺も2年です」
「同級生なんだからため口でいいよ。よろしくな」


そう言って蒼は握手のために右手を差し出した。


それ以来、俺と蒼は、早朝の公園で時々言葉を交わすようになった。



最初は、面倒なことになったと思っていた。1人で過ごす時間を邪魔される、とすら思っていた。

価値観が合う人ならともかく、なんら接点のない他人と雑談することほど、苦痛なことはない。

大学に入って早1年半、同じゼミの学生とか、必要に迫られて話す人はいるけれど、「友達」と言えるほど親しい人間はいないのも、この性格のせいだろう。

案の定、蒼とは全然話が嚙み合わなかった。なのに、それが不思議と不快ではなかった。

俺がする話と言えば、最近見た虫とか鳥の話だとか、専攻する日本史のことぐらいなのに、蒼はふんふんと面白そうに聞いてくれる。

蒼の話も、最近見て面白かった映画の話とか他愛ないものなのに、なぜか彼が話すと引き込まれる。

「お客さんと話すネタはいつも探しとけって、店長に言われるからかな」

蒼はそう言って、照れたように頭をかいていた。

映画の話をするにも俺が好きそうな歴史ものを選んだり、かなり気を遣わせてしまっている気はした。「別に気にしなくていい」、と彼はあっさり言うから、俺もあまり遠慮しないことにした。

そして、俺たちの奇妙な関係は今日まで続いている。晴れている日はほぼ毎朝、公園で駄弁って、別れる。そんな日々を繰り返しているのだ。



***

「あのカモはなんて種類なんだ?」
蒼は、バイト帰りに買ってきたというポッキーをつまみながら、池の方を指さしていた。蒼はいつもお菓子を買ってきて、一緒に食おうと言ってくる。


「あれはヒドリガモだな。今の時期はオスもメスも地味だけど、もうすぐオスは綺麗な茶色の羽に生え変わる」


俺もポッキーを一本もらい、それで池の端にいる1羽のカモを指さした。


「ほら、あのカモとかは、頭の方はもう赤茶色に生え変わってるだろ?」
「お、本当だ! 生え変わり途中なんだな」


「そ。今の時期のああいう地味な羽を、エクリプスって言ったりする」

「エクリプス?」
「英語で『月食』って意味もある。語源はギリシャ語で『力を失う』。これ先週、古典語の授業で聞いただろ」

「そうだったっけ……」

「いつも寝てるからだろ。月が美しい光を失って陰に隠れるみたく、鮮やかな羽が、地味な色に変わる時期。たぶんそういう意味だろうけど」

「あの手のカモって、秋に北国から渡ってきて春に帰るって話だったよな」

「ああ、渡りをするカモは春から夏は北国にいて、秋冬を日本で過ごす。繁殖するのは春だが、パートナーを探すのは日本にいる間だから、あんな風に生え変わるんだ」

「へえ……」
「カモに限った話じゃないが、綺麗な羽を持っているとメスにモテやすいけど、敵に見つかりやすくなる。だから、繁殖が終わって日本に渡るまでの間は、地味な羽になるんだ」


「陽はほんと、こういうのに詳しいな。尊敬するわ」
「まあな」
「そこはもうちょい謙遜しろよ、せっかく上がった株が台無しだぞ」
「蒼に対して株を上げたところで何にもならんだろ」
「えぇ~もうちょい高いポッキー買ってきてやろうと思ったのにな」

そう言うと蒼はヘヘヘッ、と笑った。彼は笑うと目じりに小皺が目立つ。


「エクリプス、エクリプス……なぁ」
蒼は缶コーヒーを一口飲むと、急に真顔になり、小声でボソリとそう言った。

公園で見る彼は、急に物思いに耽ったり、ぼんやりすることが多い。学校で、絶え間なく友人たちと明るく話している姿からは想像もつかない。


「どうしたんだよ」
「いや、この時間帯の俺も、実はエクリプスかもしれないなと思って……」


俺はまばたきを一つした。
「どういう意味だよそれ」


「昼間大学でチャラ男? みたいに振る舞ってる自分と、夜にバイト先で客の前に出るとき、優男みたいに振舞ってる自分の間みたいな」

「どっちのスイッチもオフになっちゃって、何者でもない、何にも持ってない俺自身、みたいな」
「おう……」


「こんな言い方したら変だけど、公園でこうやって陽と話すようになるまでは、ほんと空っぽだったんだよね、『素』の俺は」

「で、帰って寝たらすぐ大学行って、またチャラ男のキャラ演じて……って感じだし」


蒼はそれだけ言うと黙ってしまった。静かな公園に、カモの鳴き声とポッキーを食べるポリポリという音が響いていた。


「笠木君ってミステリアスだよね」、なんてたまに言われる。そう言われたら聞こえはいいが、要は自分のことを語ろうとしない、語れるような自分を持ち合わせていない。俺はそういう奴だ。

そんな、大したキャラもない俺が数多くいる学生の中で友達に「選ばれる」のは至難の業だ。

蒼はその点、俺よりも「選ばれる」側の人間だと思っていた。明るくて、ノリもよくて、話しやすくて……

だから、彼がそんなことを考えていたとは思いもよらなかった。


その日はちょうど、蒼と同じ授業を取っている日だった。

3限目の時間、いつものように遅れて教室にやって来た彼は、何か思いつめたような顔をしていた。

授業終わりに友人と話す姿も――あんな話を聞いた直後だったからか、いつになく暗いように感じた。

それに気づいたからといって、俺に何ができるというのだろう。

俺たちは――あの公園で会うとき以外の互いを何も知らない、友達と言えるかもわからない関係だというのに。



***

その日の晩は小雨が降っていた。早朝になってもそれが止む気配はなく、霧のような柔らかい雨が絶えまなく降り注いでいた。

今日はランニングはなしだな、と思った俺は、寝間着姿のままキッチンで湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れた。

コーヒーの匂いが鼻腔をくすぐり、まだ目覚めきっていない脳がゆっくり活動を始める。


その時ふと、あいつの顔が頭に浮かんだ。


この雨なら、蒼だって公園には行かないだろう。そうは思ったが、漠然とした不安がよぎる。

昨日のあの暗い顔のまま、ベンチに座っていたりしないだろうか。そう思うと、胸がざわざわと騒いだ。

昨日の講義で出された課題を前にしても、普段は全然見ない早朝のニュース番組を見ても――何も頭に入ってこない。


「……ああ、クソ」


俺はテレビを消して服を着替え、傘を持ってアパートを出た。霧雨が降る早朝の空気は硬く冷たく、慣れ親しんだ朝とは別物だった。


俺は早足でいつもの公園へと向かう。こんな雨だと道には人っ子一人いない。

水滴を無数につけた公園の植え込みを横目に見ながら、俺は公園の中に足を踏み入れる。

広場の中央にある池には雨粒がシャワーのように降り注ぎ、細かい波紋が全面に広がっていた。さすがの雨にカモたちは木陰に隠れたのか、水面には何も浮かんでいない。

そして池の前のベンチに、ぐったりと座り込んでいる人影――


「おい、何やってんだよこんな雨の中で! 大丈夫か?」

俺は慌ててベンチに駆け寄った。蒼はずぶ濡れになりながら、真っ赤な顔をして居眠りをしていた。近づくと、きつい酒の匂いを感じる。


「ん……陽か。遅かったな」
「雨の日は走らないって言っただろ。てか、どこでそんな吞んできたんだ」


「えー、どこってそりゃ、『Roses』だよ」

「今日は太客のおじさんが来てさあ、俺全然飲めないって断ったのにめちゃくちゃ飲ませて来て……ちょっと優しくしたら、何でも言うこと聞くと、思いやがって……」


そう言いながら、蒼はうつらうつらし始めた。


「ああ、寝るなって。風邪ひいたらどうするんだよ――蒼、家どこだっけ」


蒼が口にした住所は、ここからだいぶ距離があるところ、駅前の繫華街を挟んでちょうど反対側の場所だった。公園に寄るのはバイトからの帰り道だから、と聞いていたので驚いた。


「……とりあえず俺んち来るか? 風呂入って服乾かした方がいいぞ」



☆☆☆

やってしまった。


陽の部屋でシャワーを借り、熱い湯を浴びる。酔いが回ってぼうっとした頭がはっきりすると同時に、後悔の念が押し寄せてくる。


風呂場を出ると、脱衣場のヒーターの前にかけてあったパーカーとジーンズは、既に乾いていた。服を着て脱衣場の戸を開け、恐る恐る顔を出す。

陽が、キッチンでマグカップに何か入れているのが見えた。
「あ、あの、どうぞお構いなく」
「別にいいって、俺の作るついでだし」


そう言って、陽はコーヒーが入ったマグカップを僕に渡した。
「インスタントだけど。ブラックでよかったっけ」
「うん……」
僕は陽に勧められるまま、ベッドの前に置かれたローテーブルの前に腰を下ろした。

コーヒーを一口飲む。いつも飲むインスタントのやつより、今日のは数段苦かった。


「あの……ごめん。やっぱ引くよな……カミングアウトって、こんな風にするもんじゃないし。ましてや夜の仕事してるなんて」


僕が酔った勢いで口にした店の名、それは繫華街にあるゲイバーの名前だった。

この部屋に上がり込んだとき、店で使っている源氏名の名刺まで見られてしまったから、もう誤魔化しようがない。


「……なんとなく、ホストとかそういう仕事してるのかなとは、思ってたけど」

何か隠しているなと気づいてはいた、と陽は言った。そして、それに踏み込む勇気が持てなかった、とも。

「陽には、言いたくなかった」

陽は、僕にとって大切な人だ。

陽はどう思っているか、わからないけれど。友達、というほどのことはしていないけど、大学の友達や職場の同僚よりも、心許せる存在だ。


「でも、僕のこと、真面目に受け止めてくれるとしたら、陽だけだなとも、勝手に……思ってた」
「俺は……」


陽は何か言いかけて、言葉に詰まった。

下手な慰めとかを言わないあたり、彼は本当に誠実な人だ。


「何か言ってほしいなんて、思ってない。ただ、何となく、陽には何でも話してしまいそうになる」

昨日公園で会ったとき。カモのエクリプスの話を聞いたときに、全て話してしまいたい、そんな欲求に駆られた。


店でも大学でも、明るく楽しい奴になろうと努力してた。

暗くてずっと考えごとをしている、引っ込み思案な自分、ましてや人とは「違う」僕が、他人に受け入れられるとは思わなかったからだ。

ゲイバーでの仕事も、派手な連中との遊びも、最初は全然違う人間を演じてるみたいで、楽しかった。自分の中の違和感を、感じずにすんだ。

けれど、だんだん自分の中の大切な何かが、削られていくのを感じた。

どれだけキャラを演じても、僕がゲイだってこと、そこから来る違和感は、逃れようがなかった。

「そんな中で、陽と一緒にいるあの時間だけは、心が落ち着いてた。ああ、何かを演じなくてもいいんだって」

まとまりのない僕の言葉を、陽は割り込むでもなく、ただ黙って聞いていた。僕が話し終わっても、その沈黙はしばらく続いた。



「なあ蒼」


陽はゆっくりと話し始めた。


「俺は、その……エクリプス羽のこと、地味だって言ったけど、あれはカモがたくましく生きるための戦略だって、思ってるんだ」


その言葉に、僕は顔を上げた。


「見せる必要のないところは手を抜く、っていうのは自然界では当然だ。リンゴだって、外は美味しそうな赤色だが、中まで全部赤くはないだろ?」


「それにあの、地味な羽から派手な羽に移り変わるあの姿、とても綺麗だと思うんだ。というか、地味だから価値がないなんて、誰が決めたんだよ。あの姿も充分魅力的だし……」


「ああ、何言ってんだ俺……つまり、蒼は蒼のままでいいし、俺は、蒼がゲイだってこと、夜の店で働いてるのを聞いて、引いたりなんか全然してないって、そう言いたいんだ」



「……ありがとう」

僕は陽を真っ直ぐに見つめながら、絞り出すようにそう言った。本当に陽らしい、いつもの彼の言葉だ。


そしてそれが、僕にとって何より嬉しかった。



「お、おう。というかお前、夜まで仕事してたんなら全然寝てないんじゃないか? 俺今日は全休で家にいるつもりだったし、うちで休んでいったらどう?」


「いいのか、その……」


「遠慮するなよ。友達……だと俺は、思って、るから」


「……友達だよ、僕たちは」


僕はそう言うと、力を抜いてフッと笑みを浮かべた。今までできたことのない、とても--自然な笑みだった。



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カモがエクリプス羽から繁殖羽に生え変わる様は、気づくとちょっと感動できますよ(とらつぐみ・鵺)