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その辺にありそうなフィクション5「はじめてのひとりのみ」

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今日は休日。特に約束はないけれど何だか飲みたい気分だったので、とある居酒屋の前まで来てみた。
ここは以前、先輩に連れられて知り、安くて美味しい大衆居酒屋の鏡みたいな店だったので気に入っていた。それに店内の雰囲気的に一人でも全く浮きそうもなかったため、今日はここしかないと決めて来た。

ひとまず店の外から店内を覗くとどうやら席には余裕がありそうだった。
これまで何度も居酒屋に来たことはあっても一人で入るのは初めてで、何だか扉をあけるのに少しだけ緊張した。けれど、ここまできてずっと外にいるわけにもいかない。
私は意を決して扉を開け店内へと歩を進めた。店員はすぐにこちらに気づき、形式的な人数確認をする。それから小慣れた具合に一番左奥のカウンター席へと案内してくれた。

メニューは何となく覚えていたけれど改めて一通り確認してみる。
少し迷った挙句、瓶ビールと冷やしトマト、それからもつ煮を頼むことにした。
注文を済ませてからはものの一分足らずでビールとお通しが運ばれ、次いで数分後には冷やしトマトともつ煮が運ばれてきた。
とても心地良いテンポで運ばれてくるそれらをつまみにビールをクッと飲み干す。
——嗚呼、居酒屋で飲むのはやっぱり良いな。わざわざ来た甲斐があった。
と少し勇気のいった今日の選択に満足感を覚えつつ、すっかり居酒屋でひとり飲み食いするシチュエーションにも慣れてきた。

それからいくらかのアルコールを飲み足すと徐々に酔いを自覚し始める。
けれどまだ心地よい域は出ていない。それにお腹もまだまだ満たされていない。なので追加注文するため、店内を見渡し店員を探した。けれど店員はみな別の注文を取っていたり料理を運んでおり、いまいち声をかけるタイミングを掴めなかった。少し継続して状況を伺いはしたもののタイミングを掴める気配がなさそうだったため私はいったん店員を呼ぶのを保留とし、お手洗いへ行くことにした。

お手洗いから戻ると先ほどまで空席だった私の右隣のカウンター席に私より二回りほど年上に見える男の人が座っていた。本音を言うと隣に誰もいない方がスペースが広くてありがたい。けれど大衆居酒屋でそんな主張はお門違いだ。それが嫌なら家で飲めばいい。それにそもそも店内はほぼ満席状態になっていたので隣に人が来るのは当然のことだと納得した。

注文が決まったのだろう。男の人は店員を呼んだ。注文をする男の人。注文を受ける店員。少しぶっきらぼうな口調で重ねられる注文に聞き耳を立てつつ、終わったら私も注文しようと考えた。
けれどその直後、さきほどまであったメニューがないことに気づく。あれ、なんで?と一瞬思ったけれど原因はすぐにわかった。今注文している隣の男の人が持っているそのメニューが私の席のメニューだった。
きっと右斜め前にある自身の席に紐づくメニューに気づかず、少し離れた左斜め前にあった私のメニューを手に取ったのだろう。
——まぁ、注文が終わったら戻してくれるだろう。
とりあえず男の人の注文が終わるのを待つことに。けれど男の人は注文を終えると持っていたメニューをそのまま自身の手元に置いてしまった。
それから男の人はイヤホンを耳に挿し、運ばれてきた生ビールを気持ちよさそうに飲み始めた。
イヤホンから何が流れているかはわからないけれど、そのおかげで隣の男の人に声をかけるハードルが幾分か上がり、私はそのハードルを越えれずにいた。

しばらくすると男の人は再び店員を呼び私の席のメニューを見ながら追加の注文をし始めた。今回もぶっきらぼうな口調は変わらず。
私はそれに再び聞き耳を立てつつ、この機会に男の人が自分でメニューのことに気づくことを心の中で祈った。
けれど注文を終えた男の人は結局自分の手元にそのメニューを置いてしまった。
——これは完全に自分の席のメニューではないことに気づいてないな。

——注文したいのでメニューいいですか?
そう声をかければ済む話だとはわかってる。けれど時間が経てば経つほど隣の男の人に話しかけるハードルがどんどん高くなっていった。

結局、私はそのハードルを越えることをあきらめ、会計のために店員を呼んだ。
伝票をもらい席を立つ。すれ違いで隣の男の人へと運ばれてきた串焼きが一層美味しそうに見えた。それは私が次の注文で頼もうとしてたものだった。

ー完ー

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