平安時代、真言宗の教学は無かったの?

ここ数年、疑問だった事があるのです
以前ある本で「真言宗の教学は平安時代まったく発展が無かった(抄略)」というのを読んで

え?そんな事ある?
空海(774–835)から済暹(1025-1115)まで300年も空白?
というのが、単純に疑問だった
(もちろん事相研究が大変だった事を差し引いても)

しかし、実際、密教教学の論書が残っていない…

だが、当時の僧侶は知識人だし、そもそも醍醐寺座主で三会已講という人だっている
ではそうした僧侶は何を勉強していたのか?

例えば、醍醐寺の場合、開山聖宝理源大師がそもそも三論宗の学者で、維摩会にも出仕している
そのため、醍醐寺も三論、真言兼学の寺院であった。
これは、年分度者で各一名認められている事から、証拠もある。
そして、以後も延敒、観理、隆海、法縁など真言宗の僧侶が三論宗の代表として三会已講となる例が続く

すると、当時の真言宗の僧侶は日々の修行で感じた事など、三論宗の言葉を使って思索を深めるというのは当然あっただろう。
では、三論宗の具体的な内容というのは何か?

辞書を引くと
『般若経 』の空 を論じた『中論』『百論』『十二門論』の三論に基づく
と書かれている、実際そうなのだけれども…
では「空」について研究していて、いわゆる密教とつながるような事は無いのでは?と思ってしまいますよね?

ところが、それだけではないのです
三論宗を大成した吉蔵は『法華経』等の研究も深い。
例えば、仏身論(仏さまはどのような存在であるか)の研究も進んでいるし、慧遠『大乗義章』や真諦『摂大乗論』研究も盛んであった

ここで思ったんですが
当時の比叡山では天台宗と密教をどう統合するか、という事が大きな問題で
天台大師智顗の思想で密教をどう考えるか?という事がテーマだとするなら

醍醐寺で吉蔵・慧遠の思想を研究しつつ、密教について考える事は好対照というか、少なくとも同じ土俵に立っているように見えますね
つまり、同じ隋の高僧である吉蔵、慧遠、智顗の思想で密教を考えているという点で、問題意識を共有しているようです

そして、真言宗でも済暹以後、比叡山の安然などの著作が引用される事を思うと

平安時代の真言宗というのは
密教修行に励んだ僧侶が、三論教学で思索を深めつつ、比叡山の学問にも目を配っているという状況があり
そうした蓄積が平安時代末に形になっているんだろうな、と思う今日この頃です

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?