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密教ってバラモン教の梵我一如とどう違うの?

真言宗の人が、よく受ける質問
「密教ってバラモン教の梵我一如では?」

「違います」で終わっても良いんですが、自分なりに色々思うので書いておきます。
※所属団体の公式見解ではありません!

まず、梵我一如という思想は、本当に強力なものだと思います。
それは、人間の経験に基盤を置いているからです。

誰しも大自然の中に身を置けば、自然への畏敬の念、自然と自分の一体感を抱くものです。
それは、インドだけでなく普遍的にあるでしょうし、日本人の自然観にもあるものでしょう。

したがって、そうした普遍的な経験を基盤にする思想は、再現性が高く、強力なものだと考えるのです。

たとえば、アドラー心理学で共同体感覚を人の幸福の条件と言いますね。
これも、感覚的に自然との一体感を基盤にした思想かとも思いますし、
アドラーが喝破したように、人が幸福を感じる重要な要素だとも思います。

一方、仏教は梵我一如を否定するという。
これは、そうだと思うんです。

人の感覚に依る思想は、錯覚を起こすことがあります。
理論的には間違っているのに、感覚的には合っているから失敗することも、人間には良くあることではないでしょうか?

たとえば、大自然と一体であるとの感覚から、「永遠な存在はある」とか「自分の本体は永遠である」と感じてしまいます。
しかし、それは事実では無いし、そうした錯覚から「どうして本当は永遠なはずなのに!」「自分という存在があるから、いろんなものを所有したい!」という執着が(誤解の上に)発生し、それが不必要な苦しみを生むのです。
それを釈尊は否定しましたし、「諸行無常」「諸法無我」と言い慣わされてきたのです。

整理しますと
1.梵我一如は人間の自然な経験に依拠するし、それは人の幸福に寄与している
2.しかし、人間の錯覚により、それは苦の原因になっている
3.したがって、釈尊はその錯覚を否定された

以後、仏教とバラモン教は論争を続け、お互いに影響を受けました
しかし、例えばその論争が千年続いたとします

その段階では、お互いに長所短所を知り尽くした上で、批判される短所を補った上で、長所を主張する説を展開している。
これは、インドの大地が千年かけてより完全な思想に到達したと言えるのではないでしょうか。

たとえば、インドの人々が体験的に自然との一体感という経験に依拠した強力な思想や安心感を
その欠点を除いた上で伝えられるようにすること。
要するに、苦を生む要素を除いた安心で、人が幸福に感ずる体験は取り入れた、より完全な思想を伝えられるということ。

つまり、それが仏教では大乗~密教の時代にあたると思うのです。

インドで密教を修行していた仏教徒は、もちろん「無常説、無我説」を他宗との違いとして変わらず主張しています。
その上で、様々な儀礼や思想を仏教化して取り入れています。

バラモン教~ヒンドゥー教との差異が見えにくくなり、同化されたともいわれます。
教団としては重要な問題と思いますが、人類史に寄与したという事では、バラモン教と仏教の長年の論争は非常に大きな宝物を残したのだと思います。
ですから、決して古代の梵我一如と同一と言えるものではない、と私は考えています。

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