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ラーメンと遠慮体質

近所に行きつけのラーメン屋がある。いつも料理を担当してくれる妻が数日不在にしているため夕食を自力で用意しなければならないのだが、自分は自分のために料理できないタイプだ。その日も冷凍食品で済ませようと思ったが、洗い物をサボっており、冷食を温める皿が足りなくて、どうしても洗い物をしたくなくて、そのラーメン屋に逃げた。こうやって文字にすると自堕落すぎて泣きそうになる。いやたまたまこの日がそんな感じだっただけで常日頃そういうわけではないんだよ、と自己弁護を書き添えておく。哀れな男のために。
思えばラーメンとの関わりは深い。小さい頃のご馳走といえば、幸楽苑の味噌ラーメンだった。だから、あのゴムみたいな食感の麺は今でもたまに食べたくなる。いや、すみません、貶しているわけではなく、良い意味で無機質というか。はい。これは言葉を重ねるほど良くない方向に働くパターンだ。
想い出と呼ぶには華がなく、記憶と呼ぶには色のついた話をしよう。子どもだって親に気を遣うぞ、という言説をたまに見かける。自分の体験と照らし合わせると、それは正しい。片親の貧しい家庭で育った自分にとって、先に書いたように幸楽苑はたまの贅沢だった。ただし、いざそのタイミングが訪れても無邪気に喜んでいたわけではない。小学生の頃から家にお金がないことは何となく理解しており、たまの幸楽苑でも、決して自分のぶんのラーメンは500円を超えないように気をつけていた。味噌ラーメン単品390円が正解で、それ以上の上乗せは自分にとって慎重に検討すべき事柄だった。母親に「たまにはチャーシュー麺でもどうか」と提案されても、気分じゃないからとかお腹いっぱいだからとか、そういう理由をつけて断っていた。どうしても空腹のときに限り大盛りにした気はするが、それでも当時は500円を超えることはなかったと思う。金額は記憶違いをしていたとしても、とにかく安上がりの子どもでいようとしていたのは間違いない。気遣いや遠慮を昔からずっとやってきているんだなと、書きながら妙に納得がいった。君は遠慮しすぎだよ、もっとラフにコミュニケーションをとっていいよ、と職場の先輩に指摘されたのはつい最近のことだ。幼少期の体験と現在の自分の至らなさを強引に紐付けようとしている感は否めないものの、まったくの無関係という感触でもない。
さまざまな幸運が重なり、今では人並みにラーメンを食べられる余裕ができた。しかし、ひとりで食べるときはサイドメニューやトッピング類を頼まない。気まぐれで餃子を1枚つけようものなら大変な冒険をしてしまったと感じる。金額的な問題ではなく、ラーメンは単品で安く食べるものという意識が染み付いている。だから、誰かとラーメンを食べるとき、何気なく「餃子も頼んじゃいますか」と提案してくれる人がいると、大袈裟なほど感謝していたりする。よく言ってくれた、と。でもその場では、「あ、いいっすね」くらいのリアクションしか取らない。だって嫌じゃないか? ついでに餃子頼んだだけで心のこもったお礼とか言われるの。せっかく同じものを食べるんだから、お互い同じ温度感で過ごしたいだろう。これもまた余計な気遣いなのかもしれないが。
行きつけのラーメン屋でサイドメニューを頼んだことはまだない。この先、どういうきっかけがあればひとりで食券を2枚握るのかも想像できない。何に対して遠慮しているのかもわからない。でもそのうち、なんとなく疲れてるとか妙にテンション上がってるとか、明確な理由なく餃子を頼む日がくるような気もする。自堕落でいい加減な人間だから。


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