「言葉」のちから
お年玉について
年末年始になるといつも考えることがある。それは「お年玉について」だ。甥っ子、姪っ子が大きくなってきて、お年玉をどうするか? というのが年末年始の一番の悩みである(そんなこと考える必要はないのかもしれないが)。でも、お年玉とは何か? そして、どうすることが彼ら、彼女らにとって(そして、自分にとって)善いことであるのか? と考えると、ただ、お金をあげるというのでは、何かしっくりこないものがあって、毎年考えるようになってしまった(自分がもらう時は如何に多くのお年玉がもらえるか、なんてことばかりしか頭になかったのに・・・苦笑)。
インターネットでざっと調べたところ、下記がわかりやすいので、引用させてもらう。
なんというか、まあ、ある種人間の行動は予想できるものだな、と。お餅からお金に変わっていく。なんとなく想像できてしまうのが哀しい気もします。まあ、自分自身もだいぶその恩恵に預かったので、それに対しては感謝しかないのですが、でも、この形だけがシステム化されてしまった今のお年玉には何だか違和感を感じてしまうわけです。
じゃあ、どうしたらいいのだろうか? 昔はこうだったからということでお餅を配る? でも、もうお金からお餅に戻すことはできませんよね。お餅もらって喜ぶ子どもというのはもうないでしょう(余程のお餅好きでなければ)。神事の意義を伝えようにも、もうだれもそんなことを知らないし、していないので、それを伝えることも難しい。。。
そして、お金というものの価値は普遍ではなく、例えば、100年前と今のお金の価値というのは違うわけで、10年後今の1000円が、その半分の価値になっていたとしてもおかしくないのです。そして、僕の家庭なんかでは、そのお年玉を使えるようになったのは、小学校高学年くらいだったと思うので、それを受け継いでいるかも?と考えると、本人たちが使えるようになるにはまだ数年の時間があり、お金の価値というのは(おそらく)下がっていく・・・。そんなものを渡していいものだろうか? とも考えるわけです。
そういうわけで、コロナ前は、できるだけその子供たちの体験、経験になるものを重視しようと思って、何かの公演のチケットをプレゼントしたりしていたのですが、コロナになってからは、なかなか外に出かけることもできないので、結局お金を渡すことに・・・。でも、やっぱり何かがおかしい。本質的ではない。何かが変だ。というところで、今年は、図書カードにしました。10年以内に使わなければならなく、また来年からは年下の方も小学生なので、本を買う機会は出てくるでしょう。本で得た知識は、価値が減るどころか、価値を損なうことはありません。もしかしたら、それがきっかけで社会に対して大きな価値をもたらす人になるかもしれません。そんな淡い期待と、無責任なエゴにより今年は図書カードにしました。
昔は、もらったらすぐに子どもたちは母親に渡していたお年玉。今年はすぐに空けて中身をみていることに気がつきました。子どもたちはお金というものをすでに理解しているのか? 父親(彼ら、彼女にしてみたらおじいちゃん)が、年始のバブリーなテレビ番組をみながら、「やっぱり世の中金か・・・」なんてことを言っているのを聞いてしまうと、その価値観というのは、どこの世代まで続いていってしまうのか・・・。
お年玉がお餅に戻ることはないと思うけれども、お金という観念から、もう少しちゃんとした普遍的な価値があるもの(ある意味ではその神事自体の意味に立ち返ること)に変わっていくことはあるのだろうか。そんなことを考える年末年始なのです。お年玉はお金ではなくてはならないのは思い込みではないか?と考えて、善く生きるとは?というのを考えてみたけれども、なかなか理屈だけでは世の中は動かないけれども、でも、屁理屈(と思われようとも本当のことだと思っている論理)でも言い続けるものがいなければ、変わっていかないのかなと思うのです。
A world where everyone can live with peace of mind🌟