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多数決、多い少ないってなんだろう

【番外編】哲学エッセイ『メタフィジカル・ジャーニー』 考えることは、旅をすることに似ている。広くて、深い、形而上の旅へ。

東京都知事選挙があった。東京都民ではないので、選挙権はないのであるが、その行く末は、他の都道府県にも影響を与えるだろう。選挙人はもちろんのこと、多くのインフルエンサーたちも動き始める。当然誰がトップになるかで大きな影響があるし、そもそも日本では投票率も低く、それを社会課題と考えて、行動している人も見受けられる。どうしてそんな世の中になってしまったのか? と考えるには、どうして選挙というものが生まれたのか、というところまで遡る必要があるのだろうが、今回はそこは各自AIに聞いていただいてということで、もう少し今の選挙の仕組みに目を向けてみる。

選挙の仕組みはとても簡単で基本的には一番票を得た人が当選する。都知事の場合は一人しかなれないから、一人だけが当選する。当たり前のことである。でも、この当たり前の仕組みを疑う人は少ない。僕たちは小さい頃から多数決に慣れている。慣らされてさいると言っても過言ではない。小学生の頃から多くのことは多数決で決まってきた。クラスの学級委員長を選ぶときですら投票だったこともあるかもしれない(もう忘れてしまったけど、漫画とかを読むと今でもそうなの? という描き方がされている)。

確かに投票は簡単な仕組みだ。どっちか多い方で白黒がつく。とても便利だ。でも、ここで考えてみて欲しいのは、例えば、A案とB案2つの案があって、どちらかを選ぶ時に多数決を取るとする。A案の方が明らかに素晴らしくよい案である。しかし、B案に決まってしまった。そんなことを経験したことがある人がほとんどではないだろうか。どう考えても、それこそ小学生が考えてもA案の方がいいのに、なぜかB案になってしまう。それが多数決の怖いところであり、落とし穴である。落とし穴というよりもわざとそれを利用していると言っても過言ではないだろう。内容の良し悪しよりも、数が多ければいい。そして、数が多いことが正しいことだとする。この理論はなんなのだろうか。

でも、すでに多くのことがその様な形で決まるような仕組みになっている。別に多数決が悪いわけではないが、でも、それは必ずしもその選択が正しいとは限らないという仕組みになっている。先の例だとA案とB案のいいとこどりをしたC案を作った方がより良いという場合もあるだろう。

もちろん核となるリーダーはいた方がいい場合もある。でも、必ずしもそこに特定の誰かというのは必要なのだろうか。今のこのインターネットや人工知能の時代に必ずしも都知事は必要なのか? 一人でいいのか? そういう当たり前から疑ってみなくては本質は見えてこないのではないだろうか。

もちろんルールだからしょうがない。でも、ルールを変えるのは政治家である。そうなると、ルールを変えられる人がルールに縛られるという矛盾に陥る。そして、ルールはなかなか変わらない。それもある種多数決だからである。選ばれた人はまた選ばれたいのであれば、ルールなんて変えない方がいい。今選ばれているのだから。

でも、本当は選ばれているという自覚があるのであれば、選んでくれた人はもちろん、みんなのためによいことをすることは当たり前のことであるけれども、でも、なかなかそうはならない。他人のことよりも自分のこと。これは政治だけの話ではなく、きっと日本全体、世界全体に蔓延している病気のようなものである。ある意味で仕組みと言っても過言ではないだろう。

誰が考えてもよくないことなのに、よくないことをしながら、よいことができる訳がない。そもそもそのことを考えないことがよいことではない。悪いことである。もっとよく生きたい、もっと世の中をよくしたいと思うのであれば、根本的な仕組みから考える必要があるのではないだろうか。そのことを口にする人はほとんどいない。ルールは決まっているものだと思い込んでいるから。自分一人では変えられないと思い込んでいるから。

この思い込みから自由になるためにも、選挙とは、多数決とはということを考える必要があるのではないだろうか。考えないで行動すること、ましてや票をいれることはよいことだろうか。さて、一体どうしたら世の中はよくなるのだろうか。

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