スーパーボール

意識は、失ったり戻ったりする以外に、高い、低いという言葉に捕まえられることがある。

我々は「高い/低い」という概念が好きだ。

能力も、学歴も、給料も、「高さ」で表されることがしばしばある。そして、往々にして(皆が皆そうではないということは言うまでもないが)「高い者」は「低い者」から呪われ、「低い者」は「高い者」から蔑まれる。

意識も例外ではない。

筆者は、意識を「高さ」で捉えることに昔から消極的であった。何故なら、「高い/低い」という言葉は半強制的に「ピラミッド」や「塔」を想起させるからである。

中学生の頃、「意識の高い」同級生が「漢字検定」を受けると言い出した。その時の筆者の態度といったら…

「漢字検定受けて、何級か知らねーけど受かったとして、そんでどーすんの?自慢すんのか??あー、見下すのかお前は!漢字が得意じゃない多くの人のアレを、魂を、見下すというのか!はい、お前性格に難あり!はい、お前人間として終了〜!」

当時筆者が中学二年生だったことを考えると、「厨二病」という言葉はある程度的を射ているのかもしれない。今思えば、競争そのものを完全に否定してしまえばそこに残るのは階級。つまり、どれだけ努力しても生まれ落ちた境遇から永遠に抜け出せないシステムだけが残るということになる。なんと可愛い中学二年生であろうか。「意識の低さ」で完全に武装している。事実、当時机に向かって勉強した記憶など、ない。

しかし同時に、未だに競争を完全に肯定する気になれないのは、まさに「生まれ落ちた境遇」が人により異なる為に「スタート地点が一人一人違うことへの不公平さ」に吐き気をもよおすからである。富士山頂を目指す。一合目からスタートした人と五合目からスタートした人の登頂までのタイムを競って、それが何になるというのか。

意識の高さ/低さにも、個人が生まれ落ちた環境などが多かれ少なかれ影響するはずだ。

意識は、繊細である。それを「高さ」で測るのは、危ない。

では、「意識の高いものから低い者への嘲笑」と、「意識の低いものから高い者への呪い」を爆笑しながら飲み込み得る、優しい工夫はないだろうか。

ある。それは、意識を「高さ」ではなく、「広がり」として捉えることである。

高さを基準に意識を設定すると、やはりそれはどうしても塔のイメージを抜け出せない。小林康夫が興味深いことを言っていた。塔のイメージは、実は井戸のイメージと限りなく同じであるというのだ。確かにその通りだ。井戸の底にいて「ここから抜け出したい」と天を見上げた時の景色と、塔の中にいて「もっと上へ」と天を見上げた時の景色は、絶望的に似ている。貞子とラプンツェルが見ていた世界が同じだったなんて…どちらも髪が長いのは偶然だろうか?

前後左右、我々の目の高さに意識は存在する。その可動範囲は、我々の身体を貫く軸を中心に両手両足を目一杯広げ、自らのコンパスを以て描いた円の範囲内だ。その事は本ブログの一番最初の記事に書いた。

その円が、他の誰かの円と交差することがある。

その時の幸福感といったら、意識の高低差にまとわりつく光や闇など一瞬にして吸い込んでしまうほどの半球体である。

いつか筆者の半球体と誰かの半球体をセメダインでくっつけて、幸福感でできたスーパーボールを作りたい。

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