Things Your Cells Rejoice

「何々しなくてもいい」という表現が好きだ。


筆者には、たくさん夢がある。ただ筆者は、人は無理に夢を持ってなくてもいいと思っている。やりたいことがなくてもいいと思っている。そう考える理由は、大きく分けて二つある。

一つは、夢を持つ人は搾取される対象になりやすいからだ。サッカー選手でも、アイドルでも画家でもミュージシャンでも、なんでもいい。それらすべてに関して「もっと上手になりたい≒他の人より(または前の自分より)できないことが不安」という気持ちに漬け込む「養成所」や「塾」や「学校」というビジネスが存在する。もちろんそういった場所で素晴らしい出会いがあったり、能力が著しく伸びて花開くということもあるだろうけれど、「夢」というものは耳心地がいいだけでそれほど美しいものではないということは肝に銘じておいたほうがいいと思うのだ。ビジネスそのものを否定はしないが、人の弱みに付け込む商売を賞賛するほど筆者の道徳心は汚れていない。

二つめは、夢を持っていない人に対して「夢を持て」と言うのは単純に抑圧として働くと思うからである。そもそも、「お前に命令口調で話される筋合いはない」という話だ。

「夢を見ろ。やりたいことをやれ。」と、さも何か良いことを言っているかのように説いて回る人々は、その言葉に傷つけられる無数の精神に少し目を向け、何か他に言い方がなかったのか考える必要があるのではないか。その啓蒙的情熱は、凶器にもなりうる。
「何々しなくてもいい」は、優しげなやすらぎの言葉ではない。
平和主義を前提とした引き算による他者理解のキーワードである。

とはいえ、そんな考えの筆者も自信を持って「何々したほうがいい」という言い方で自分の意見を言えることが一つだけある。

それは、「細胞が喜ぶことをしたほうがいい」ということだ。

この「細胞が喜ぶ」という表現は筆者の母や兄がよく使う表現で、最近ようやく筆者にもその意味がわかってきた。最近細胞が喜んだのは、好きなアーティストのライブをビールを飲みながら鑑賞していた時や、昔どこかで飲んだ銘柄も知らぬ白ワインとおそらく同じものをたまたま飲み屋さんで注文してその香りが鼻に抜けた時や、読み漁る書物の一行に救われた気持ちになった時や、タトゥーアーティストの素晴らしい作品を眺めていた時や、上手にご飯が炊けた時などである。

細胞が喜んでいた瞬間瞬間を振り返ってみると、それはそれは美しく輝いている。ブリンブリンである。宝物だ。

しかし一体どうして、このことだけは「したほうがいい」と言えるのか。

それは、細胞の喜びこそこの乾いたどうしようも無い現実を噛み砕き消化する力を「抑圧なしで」くれるものだからだ。細胞が喜んでいるのだ。こうしなきゃ、ああしなきゃではなく、望もうが望むまいが細胞が勝手に喜んで、それに呼応するように人は幸せな気持ちになる。

人はいずれ死ぬ。その時は、細胞が喜んだ記憶をぎゅうぎゅうに頭の中に詰めて死にたい。遺体が焼かれる日に、火葬場の煙突から燃え尽きた記憶が虹色の煙になって昇っていくのが楽しみだ。

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