忘却の力、恐怖

忘れるということは、人間にとって最も重要な行為の一つであるような気がする。もっとも、人間が何かを意識的に忘れようとするということは思い出すこととほとんど同義であるから、行為と呼べるのか疑わしいけれども、いずれにせよ重要な何かではありそうだ。フロイトではないけれど、とんでもなく辛い記憶などは抑圧され無意識に埋め込まれることで、我々人間は何とか日常を生きていくことができるというのは、なるほどそんな気がする。2011年3月11日、怪獣に家を丸ごと破壊された筆者の知人は、毎年その日にweb上に現れるYaxxx!の特設ウェブサイトや被災地に来るボランティアの人々を見て「いい加減忘れさせてくれ」と思うそうだ。巨大な喪失を経験した人間にとって、その喪失を直視することは、端的に言って、辛い。先の震災を例えに出すならば、たった6年で傷が癒えると考える方が傲慢なのだと思う。無論、阪神淡路、熊本の例も同様に。

しかし私たちは、「忘れてはならない」という精神性が好きだ。往々にして、こういった「忘れてはならない」、「風化させてはならない」記憶というのは、個人の記憶ではなく「集団の記憶」として保存することを目的とすることが多い。原子爆弾を落とされて妹が死んだ兄にとって、その記憶がどうして思い出したいものであろうか。しかしこれが「日本人の記憶」として認知された時、原子爆弾で被害を受けたのはその妹ではなく「日本人」になるし、バタクラン劇場で銃殺された一般人は同様の仕方で「フランス人」となる。私たちは、「私たちの」悲しい記憶が大好きだ。

筆者は、そういった態度は不謹慎だと思う。他者の悲しい記憶を自分の記憶と混同するということに、何か品の悪さを感じる。確かにそれは忘れてはならない記憶だが、それ以上にそれは鎮魂、祈りもしくは畏怖の念を必要とする、また別のタイプの記憶ではないだろうか。これらの念なしに、ユダヤ人や黒人奴隷、被爆者の記憶に触れることは、許されない。逆にいうと、畏敬の念を持つことで初めて、記憶を風化させない意義を見いだすことができるのだろう。ここで初めて、「集団の記憶」を忘れることが怖いという次元にたどり着く。

では、個人の記憶において「忘れることが怖い」次元とは、どこか。

筆者は、「個人が積み重ねてきたものを忘れてしまうこと」がその次元だと考える。私たちは今まで一枚一枚、葉を重ねるように命を積んできた。意識的に積み重ねていた何かもあれば、気づかぬうちに積み重なってしまった何かもあった。しかしつまるところその二つは、重なり合いながら、少しずれながら、でも確実にミルフィーユのように積み重なってきた。

この積み重なりの厚みは、スニーカーのソールに似ている。一歩一歩、切なさのコンクリートや苛立ちのオフロードを踏みしめた時の衝撃を吸収してくれるからである。

しかし人は多く、この自らのソールの存在を忘れがちだ。故に、裸足で歩いているという自己催眠状態に陥ってしまう。割れたガラスの破片や小石が素足の裏に突き刺さっていると勘違いしてしまう。

この手の忘却は、恐怖であると筆者は思う。

そして、この手の忘却が妨げられ、命の重なりのソールが思い起こされた時の心のジャンプが、好きだ。

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