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合理的配慮

 どうもtakuhoです。
夏休みも中盤になってきましたね!
夏休み後半、皆さんはどんな予定がありますか?僕はミーティングの嵐ですが、なんとか一緒に飲みに行きたい人と、一緒にBBQに行きたい人がいるので、誘えるように頑張ってみようかと思います笑

さて今日は、「配慮」について考えてみようかと思います。

小さい頃から思っていたこと

 僕の父親は学校の先生をしていました。といっても皆さんが想像する学校とは少し違います。
僕の父親が働いていた学校の名前は"特別支援学校"。いわゆる身体や脳機能等に"障害"を抱えながら生きている子供達の学校に勤務をしていました。僕は何度か父の職場に足を運ばせてもらったり、父からいろんな話を聞かせてもらっていました。
 そんな中で、父は"どう自立させてあげるか"という難題にいつも頭を悩ませていました。健常者と呼ばれる僕たちと障害者と言われる彼らの間にある溝を埋めることや、障害を持ちながらどう自分なりに生活をしていくのか、どうすればそれをやらせてあげることができるのか、父はいつも考えていました。
 しかし、僕としては「助けてあげればいいじゃん!」とずっと思っていました。彼らに対していろんな手助けをして、ロボットを開発して、全部助けてあげればいい。なんでそんなに"自分でやらせる"という部分にこだわりを持っているのかがイマイチわかりませんでした。

大学生になってみて

 そんな疑問を持っていた僕も大学生になりました。動画編集などでお金を稼いでいた僕は、大学の授業もやるようになった父親の授業資料作成のお手伝いをするようになりました。
 当時はまだまだコロナ禍だったこともあり、授業は"オンデマンド型"と言ってアップロードされた動画を生徒たちがみて、課題をこなすという授業形態をとっていました。そこで僕は、父親が作成した講義動画の編集を担当しました。つまり、僕も父親の授業をしっかりと見る機会があったんです。父親が話す講義動画の中で一番印象に残った言葉それこそまさに"合理的配慮"という言葉でした。

合理的配慮の意味としては、

相手が自分で行動するための配慮

というものです。もっと簡単に言えば、相手ができるように環境を整えてあげようというものです。

 障害を持っている人は、自分でできることが少ない。しかし、それはあくまでも"今の環境下においてできないだけ"であり、障害者が行動できるような環境構築をしてあげれば、彼らは自分たちでできることが増え、誰の手を借りなくとも自分で生きていくことができる。だから、健常者と障害者の双方が行動しやすい環境構築をしよう!ってことです。

 階段じゃなくてスロープにしてみたり、自動販売機の一番上の段には番号を振って、下のボタンでも購入できるようにしてみたり、車椅子の人がそのまま席に車椅子ごと入っても大丈夫なような空間づくりをしてみたり、そういった障害者自身を助けるのではなく、その人たちが自分でできるような環境整備を助ける
 今の日本の課題であり、父親の目指していたものがなんだったか、わかった気がしました。

最後に

 いかがだったでしょうか、「合理的配慮」。
ただ単に助けたって、それは一時であり、その人を真の意味で助けたことにはなりません。
 助けるとは、その人が一人でも生きていけるようにしてあげることであり、そのためには、その人々が一人で生きていけるような環境を整備してあげることなんだと改めて感じました。

次回は、この考えの現代への応用について書こうと思います。

それではまた。

takuho

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