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優しさは義務化することで死んでいく

 どうもtakuhoです。
もう6月も終わってしまい、7月に突入ですね。
もう1年の半分が終わってしまったと思うと、時の流れの速さに驚愕します。1日1日を大切にして行きたいですね。

さて今日は「優しさの義務化」について書いてみようかと思います。
 僕は"優しい"というテーマを何度か書いているかと思います。「優しいとは」とか「それって本当に優しいなのか」みたいな部分をテーマに書いてきました。
しかし、最近もう1つの側面からの"優しい"について考える機会があったので、今日はそれを皆さんに共有していこうかと思います。

優しさ

 人間の優しさはいろんな種類があることは、僕のnoteを読んでくれている皆さんなら、もうなんとなくイメージがついているかと思います。

今回注目したいのは、その種類などではなく"優しさの発信源"です。

 基本的に優しくすることは当たり前のことではありません
みなさん、自分の人生がありそれが最優先です。これは紛れもない事実であり、これを覆すことはできません。その前提条件でいくと、他人に対して優しくすることは生きていく上では必要のないことです。
 しかし、それでも優しくするのはあくまでも"優しくする側""優しくされる側"に対して、何か特別な感情を抱いているからです。

つまり、

優しいとは人生において超異例な行為であるという大前提

があるのです。

優しいの義務化

 しかし、現在この"優しさ"が義務化されてきているかのように思えます。

例えば、奢る奢られる論争。基本的に奢るという行為は"優しさ"に値すると思います。そのため、奢るという行為は"奢る側"が"奢られる側"に対して特別な感情を抱いている時に"奢る側"から発信するのが基本原理です。
つまり、「男性が奢るべきだ。私とデートをしたいなら奢れ。」という主張は本来の優しさの根底を無視した、優しさの義務化ということになります。

また、パワハラなどのハラスメント系も同じようなことが言えると僕は考えています。もちろん、時間外労働を強いているのにも関わらず賃金を払わなかったり、仕事には関係のない人格否定をするような発言、根拠のない罵倒などは然るべき対処をするべきだと思います。

 しかし、現代では「頑張れよ!」と声をかけるだけで、気を病んでしまう人がおり、その責任は「頑張れ」と発した人になってしまうという状況があります。

 基本的に会社は労働者に対して賃金を支払っています。そのため、契約上労働者は労働をしなければいけません。そして、その労働に「部下のメンタルケア」は入っていません。そのため、"声をかける側"が"声をかけられる側のメンタル"を考えて発言内容を考えたりする行為は本来あり得ないことなんです。しかし、現代では、上司は発言を気をつけないといけない。という風潮が出来上がってしまっています。

これらに違和感を感じない人が多いのはやはり"優しさの義務化"に慣れてしまった人が多いからなのだろうと僕は考えています。

特別感

 一番初めでも書いた通り、"優しい"は人生において異例の行為です。
優しくする側が優しくされる側に対して異例の感情を抱いた時に初めて起こる、人生のバグみたいなものです。だからこそ、それを義務化し通常化してしまうことは、人生を狂わせる行為であることは明白です。

 もっと、優しいという行為に対して、"優しくする側"も"優しくされる側"も"特別感"を意識することは、とても重要なことだと僕は思いました。

最後に

 いかがだったでしょうか、「優しい」。
最近、優しくすることが当たり前という風潮を感じすぎて、自分でもなぜ優しくしているのかがわからなくなってしまうことが多かったので、自分の頭の整理のためにも書いてみました。

みなさんの意見も聞かせていただけると嬉しいです。

それではまた。

takuho

 

 

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