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大阪の街や道をもっと知りたい!大阪歴史博物館へ

念願かなって一度目の大阪歴史博物館に行ってきた。
「大化改新の地、難波宮 古代日本のターニングポイント」という特別展が今は開かれているが、その展示が6F、常設展が7〜10Fで行われているというとんでもない展示空間の広さ。
10Fから順に下りながら見ていくという展示方法なので、特別展に辿り着くまでにはずいぶん時間がかかる。
3時前くらいに入ったので、時間内に全て見るのは難しいだろうなと思っていたが、案の定9Fの途中で5時閉館を告げるチャイムが鳴り出し、泣く泣く見るのをやめた。共通券買わなければよかった…と切ない気持ちになりつつも、かなり満足な内容だった。
どのようにして、今の大阪という街が出来上がったのかを知るというのが目標。今日書けるのは正直10Fの難波宮のことくらいだが(しかも情報量が多すぎて上手にまとめられそうにない)、それでも大阪の成り立ちを知るための第一歩としては素晴らしい密度だと言えるのでは無いだろうか。

というわけで、10Fの難波宮の展示を見て知ったことをまとめてみる。
今の大阪城や大阪歴史博物館のあたりに難波宮があった。難波宮は碁盤状に整備されていて、南へまっすぐ朱雀大路が伸びていた。四天王寺の辺りまでが碁盤の目に含まれていて、四天王寺が重要な寺であることが分かった。
(四天王寺について、もっと詳しく説明されていたが、難波宮のことしか覚えられていない)
また、それらの地は上町台地と呼ばれる台地にあり、北に大川と呼ばれる川が流れていた(流れている)。多分、大阪の歴史を語る上で「上町台地」はキーワードなのだろうと思った。
難波宮に遷都されていた時代は、前期難波宮の時代(645年、大化改新の頃から)、後期難波宮時代(744年から、740年の藤原広嗣の乱を経て)の2度ある。
高校時代の日本史で、難波宮とか藤岡京とか飛鳥浄御原宮とかを立て続けに覚えた記憶はあって(正直今日の今日まで全く覚えていなかったが、文字を見て思い出した)、けれど「めっちゃ遷都したんやな、平城京と平安京のことしか知らんかったわ」ぐらいの感想しか持たなかった(いやもっと漠然と「順番覚えないかん!」ってぐらいだったわ)。
でも、大阪の歴史を語る上で、大阪を文化的都市たらしめているルーツとも言える、都の存在というのは決して軽視できないものだと思った。
そういう意味では「幻」とまで言われていた難波宮を発見した方(展示されててすごいなと思ったのに名前忘れてしまいました。すみません…。)はホンマにすごいと思うし、開発の波に飲まれずに遺構が残ってきたことも、とても誇らしいことだと思う。
ここまでが10Fの難波宮に関する展示を見ての感想。まだまだ語り尽くせてないし、間違いもあるかもしれないけれど、かなり学びが多かった。9Fから下の話も、また歴史博物館に行ったら続けて書こうと思う。

改めて思ったことを最後に。
文化や歴史を知るということは、今住んでいる街を誇らしく思うことにつながると思う。裏返せば、自分が住んでいる街が「すごいぞ!」ってドヤ顔するためには、今の街の良さを知るだけでなく(全国が等しく都会化されている途上にある今では、都会らしさを誇るだけでは物足りなく感じる…)、もっと重層的に、歴史や文化の側面からも知らないといけない。
難波宮、今までは何なら忘れてたし、順番で覚えなければならないものの一つに過ぎなかったけれど、大阪に住んで、大阪のルーツとして知るからこそ、輝いて見えて誇らしい。こういう気付きと学びをこれからも大事にするぞ!と思った。

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