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俳句 「柿食えば・・」この句の何がいいの?

先日、子規の名句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」について、俳句を全くやったことない会社の同僚に、良さを聞かれる機会があった。誰でも作れそうだし、柿食って鐘が鳴っただけ?というのである。

即答できなかったため改めて、この句の良さ、名句たる所以について自分なりに考えてみたので、この記事は同僚へのアンサーとしてしたためる。

俳諧史における位置付け、当時の時代背景、この句の解釈などについては、今更僕が書くまでもない(というか書けない)ため、様々なWeb記事に委ねる。ここでは、「柿食えば・・・」のどこがすごいの?について、同僚になるほどねぇと思ってもらえることを目標とする。

結論からいうと、
「古都奈良の秋の風情・感慨を17音で表現する場合の完結編だから」

季語は「柿」だが、この句は柿をテーマにしているわけではないと思う。
テーマをつけるとするならば「秋の奈良の風情、その場にいる感慨」という壮大なテーマ。それを「柿を食べる」という俗な行為、「法隆寺の鐘」という伝統的な風情を結びつけるだけで、秋の奈良に自身が立つ感慨を表現できているように思う。

17音だけで何かを切り取って、「秋の奈良の風情と感慨」をこれ以上に、表現してみやがれ!と。もうこれ以上はないだろうと、思わせる説得力があるように思う。むしろ、さらに音数使ってもダメなんじゃないかくらいに思う。

今日の記事の結論としては、名句がわからん、自分でもかけるという人には、その句テーマ(テーマを特定するのも無粋ではあるが)でそれ以上の17音の表現を考えられる?と返すことにしようと思ったという話。

今日の三句

今の僕で、これは完結編だなぁと思える名句三選

『さまざまなこと思い出す桜かな』(芭蕉)
日本人にとっての桜の本質の表現としての完結編
『滝の上に水現れて落ちにけり』(後藤夜半)
滝そのものの本質を表現したものとしての完結編
『去年今年貫く棒の如きもの』(虚子)
一瞬と永遠という去年今年の本質(夏井先生の表現のパクリ)の表現として完結編

卓鐘的、完結編と思われる名句




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