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ジブンマイニングで食の生産性改革

ゼロからはじめる生き方改革 志事探し編2

前回noteでは、内から湧き出る熱いLyricを殴り書いてしまいました、シブヤ生まれヒップホップ育ちの坂本です。
誰か曲つけてくれたら、本連載の内容でYouTubeとかで話すことがあればオープニング曲にしようかな。

さて、先週5/27の金曜日、サラリーマンが昼も夜もカネを落とす街 新橋で病院をはしごして得たものは、高血圧症という診断結果と今後毎朝服用することになる小さな錠剤、そして信頼できるベテラン先生と、こちらのチラシだ。(紙はその場でスキャンして先生にお返ししたけど)

このチラシにもあるように、まずはライフスタイル改革の初手として食生活の改革にトライすることに。

とはいえ、拙著『意識が高くない僕たちのための ゼロからはじめる働き方改革』でも述べさせていただいている通り、単なる削減は改革にあらず。
目の前の仕事の時間を減らすばかりで「本来やりたい志事」が明確でなければ、削減効果は長続きせずリバウンドしかねないし、そもそも失敗するかもしれない改革リスクをとってまで今やっていることを削減しようとはなりづらい。

しかし、よくある「生産性=成果/投入量」の数式で物事を捉えてしまうと、「生産性を高めるなら投入量(労働時間とか)の削減だ!」と短絡的に行動しかねない。
本来は、「成果=生産性×投入量」という数式で状況を捉え直した上で、「単に量を減らすと成果が落ちる」という視点を持つことが大事である。

そうして、「自分たちが目指している『成果』ってなんだっけ?」というところから見つめ直し、その成果を実現するために生産性(やる事、やり方、やる力)を変えることが、働き方改革なのである。

食生活の改革にもこの考え方は当てはめられる。
塩分減らすとか脂質減らすとか、量を減らすとかの話に終始しては長続きしないし、やる気も出ない。

「そもそも私自身は、食生活にどんな「成果」を求めているのか?」から定義しつつ、その成果を満たす上での食事の生産性、すなわち食べ物、食べ方、食べる力の選択肢を変えていくべきなのだ。

そこでまず私が食生活改革の第一歩として行ったことは、減塩しょうゆを買うことでも食生活改善アプリをインストールすることでもなく、朝のオープンカフェに向かうことだった。

朝の空気に浸りながらじっくり気分を整えつつ、「自分は食事に何を求めているのか?」と『ジブンマイニング(自らの内面を掘り下げ、自分の根っこの意図や志向認識すること)』をするためだ。

地元西宮の浜近くの少しこじゃれたカフェのオープン席に腰を落とし、流れる雲、通り過ぎる車を眺めながらぼんやりと思考を進める。

「私はなぜ家系ラーメンでライス2杯食べるんだろう」
「私はなぜ神座で壺ニラを壷ごと丼にぶちまけるんだろう」
「私はなぜ夜中に田中に行くんだろう」

もちろん満腹感を感じたいということもある。
しかし、それなら食べるものは何でも良いわけだが、私の選択は家系や神座や田中であり、フレッシュネスバーガーでも大戸屋でもましてやCITYSHOPでは決してない。

味の問題かというと、たぶんそうではない。
申し訳ないが家系ラーメンを美味いと思うことはないし、田中はたしかに美味いけれど同じくらい刺身も好きだし生野菜も好きだ。

ではなぜ私は好んでそこへ行くのか?
もう少し思考を深めると見えてきた共通点がある。

「トッピング、付け合わせ食べ放題」

これが私が店を評価する最大の要素なのだ。

ランチに「いきなりステーキ」よりも「やっぱりステーキ」を選ぶのは、ライスやキャベツが食べ放題だから。
夜中に小腹が空いた時に近所の「すしざんまい」より「串カツ田中」に足が向くのは付け合わせのキャベツが食べ放題だからだし、ソースや塩の種類の組み合わせ方・配合が豊富だからだ。

定食屋を探すときついつい「やまや」を選ぶのは明太子とごはんが食べ放題だから。おかずなんて飾りであり、なんなら邪魔ですらある。

しかしそうすると、なぜ私はそうした「食べ放題」を好むのだろうという新たな「問い」が生まれてくる。

ジブンマイニングとは、自分への問いを深めていくプロセスであり、言わばマインドフルネス。
もう少し自分の奥底にある欲に向き合ってみよう。

たしかに私は食べ放題が好きだ。
しかしそれは決して「お得に満腹になるから」ではない。やまやは一食1000円するし、夜中に串カツ田中行くより吉野家で限界まで食べた方が安上がりだからだ。
言うまでもないが味覚的な満足感を得るためでももちろんない。

さて、ではなんなのだろうか。光に吸い寄せられる蛾のように、私が食べ放題に引き寄せられるワケは。食べ放題に挑む時、私は何に喜びを見出しているのか?

いや、もしかすると私は食べ放題に「苦しみ」を見出しているのかもしれない。

なぜなら単なる喜びや快感の感情は一度得てしまえばもはや「もっともっと」とはならず、一定の満足感のもと別の興味に向かうもの。感応度順応性というやつだ。
しかし私は何度も挑む。そう、「挑む」のだ。私は食べ放題という経験に、楽ではなく苦の機会を見出しているのではないか。すなわち「苦労して勝利すること」こそが食の目的、志事なのだ。

それはまるで「コミケ」だ。

私はコミケ(コミックマーケット)を戦場ととらえている。たった1人の自分と40万人の「敵」が、夜明け前から東京ビックサイトでひしめき合い、目当てのもしくはレアなグッズや本を求め、ダッシュ禁止の会場内を競歩選手さながらの気迫で歩き回る。

私は彼らより少しでも疾く、少しでも多くの戦利品を獲得するために戦略を練り、前週からコンディションを整える。
当日は一瞬の判断の遅れや迷いで、数100名の列の先頭に立てるか後ろに回らされるかが分かれる。

また、既に並んでいる列のわずかな「起こり」を察知し、その行列が進むスピードを予測しなければ、「吸着列」と呼ばれるまったく進まない行列(要は勘定と商品受け渡しが遅い)にダイヤモンドより貴重な時間を奪われてしまいかねない。

灼熱の真夏日に、持参した飲み物が切れて絶望の中、わずかな影すらない駐車場待機スペースに1時間以上も並ばされ、脱水症状になり倒れて運ばれて行くライバル達を横目に気力だけで立ち続けることも。
真冬の凍える雨の中、安全上傘をさすことは認められていない行列の中で、戦利品を雨風からかばうように抱きかかえ身を屈めて震えて待つことも。

それが、ぼくたちのコミケ(戦場)だ。

しかしそうして必死に戦場を駆けずり回って獲得した戦利品たちは、ともすれば一度も箱から出されることがないまま箪笥の肥やしとして一生を終えるものもある。
つまり、私はそれらグッズが欲しいのではないのだ。

「勝ちたい」

私の志事は、その一言尽きるのである。
そして食べ放題、否、食事という行為にも私は勝つことを使命と感じていたのだ。

誰よりも多く、または誰もやったことのない食べ方で調味料やトッピングを駆使し、さらには店舗が「参った」となるような原価率の高い品目ばかりを選択する。

満腹を超え辛くても、調味料の組み合わせを失敗し激辛になろうとも、私は勝つために食べ、食べるからには勝ちたいのだ。

I don't want to eat, but I just want to beat.
〜食べたいのではない、ただ倒したいだけだ。〜

そう気がついた時に、私は背中に流れる大粒の汗をはっきりと感じた。
すでに朝日は天頂に登り切り、初夏どころか真夏の暑さとなった日曜日のオープンカフェで、私の中で何かが込み上げてくる感覚にひとり戦慄していた。

数時間にわたるジブンマイニングという思考ゲームによって、ゼロからはじめる生き方改革の一手目である食生活改革の道が開けたのだ。

「勝つために食べることは変わらない。しかし、勝利条件をこれまでと少し変え、常人には浮かばない独特かつヘルシーな注文としくは食べ方をすることをもって勝利とする」

これを私の食生活改革のドクトリンとし、早速このあとのランチからその実行に入ることを心に決めて、とっくに空になったマグカップを返却して、カラカラに乾いた喉を潤すべくカフェを後にした。(つづく)

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