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推し、燃ゆ(宇佐美りん)

 私は、アイドルを「推す」という感覚が理解できなかった。某女性グループアイドルが好きだったことはあるが、テレビ番組を見たり、写真集を買ったりとその程度。ライブに行ったり、握手会に行ったことはない。

 「推す」ことができる方々は、恋愛感情とは違う、とよく言うが、それも理解できなかった。見目麗しい年ごろの異性に恋愛感情がないというのは腑に落ちないし、「恋愛禁止」というルールも、「女性なんて恋してる時が一番輝いているのに、それを見せないのか?」と思っていた。

 ようするに、「推す」ことのできる人間は、私とは全く別種の人間であり、気持ちを分かち合えることはできないと思っていた。

 しかしながら、この作品は、「推す」ことの意味、価値を私に説明してくれているように感じる。主人公は「推し」のことを「背骨」と表現している。日常生活をただ生きるのが苦しい。周りがみんなできていることが自分だけできない。最低限ができない。

"最低限を成し遂げるために力を振り絞って足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れる"(本文中より引用)

 その中で、「推し」が「背骨」として主人公を主人公たらしめているということが痛々しいまでも伝わってくる。

 そうか、「推す」とはそういうことなのか。私の中でひとつ、ストン、と落ち着いたような気がした(もちろん、推す理由など千差万別であろうが)。

 私自身、うつを経験し、私が私であることの意味、生きる意味、劣等感、様々な思いと向き合った(答えは出ていない)。しかし、人間は自分が自分でいられるだけの理由が必要な場合が多く、それが家族、友人、恋人、趣味等人によるのであろうが、それがアイドル、つまり「推し」だということなのであろう。

 この作品は、いろいろな味わい方ができる。特に自己肯定感の低い私にとって、主人公の心理描写は、今まで、言葉で表しえなかった、私自身の感情を言語化してくれているように感じたし、主人公の母、姉、バイト先の女将さん、バイト先のお客さんの悪気のない一言が、心にひっかくような傷を与える感覚は共感できる。(もちろんこれは、主人公に感情移入して読んでいるから)

 私のつたない文章では表現しきれないが、多層的に魅力が積み重なった本であると思う。是非、ご一読を。



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